平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

川端康成の「生」と「死」  2009/07/30

kawabata


◆「川端康成の『掌の小説』(新潮文庫)が最高です。それを語る(静岡大学の)田村充正先生はもっと最高です!」 
この暑さの中、ある学生が更に熱くそう語るので、さっそく件の「掌」を読み始めることにした。
もちろん川端が掌編を数多く手がけたことは知っていたけれど、読み散らかす程度で何一つ満足に読み込めていなかったことに気づかされる読書となりそうだ。いや、いくらこんなわたしでも『雪国』や『伊豆の踊子』『山の音』『みずうみ』『古都』ぐらいは読んでいる。おうっと、三島由紀夫との往復書簡だって(社会人一年生当時は三島の肩を持ちながら)読んだ記憶がある。それだけではない。あるテレビ番組の案内役で伊豆を川端の足跡を訪ねて歩いたことだってある。川端が『伊豆の踊子』を執筆した天城湯ヶ島の湯本館にだってちゃんと足を運んだ(自慢にもならないけれど)。
さて、『掌の小説』を手にしたら冒頭いきなり「骨(こつ)拾い」というとんでもない物語が待ち構えていた。

「谷には池が二つあった。下の池は焼き溶かして湛えたように光っているのに、上の池はひっそりと山影を沈めて死のような緑が深い。」

この書き出しにまずやられた。そもそもこの話しの主な部分は、祖父の葬儀の明くる日の回想という形式をとっている。
書き出しの二つの池は生と死の見立てだろう。そうして語り手「私」の「鼻血」は、祖父の死に対する生との対比だし、葬儀の白と黒に対する生のでもある。象徴的な桃の実の落下の一行、そうして何よりも色や音の描写が多いのも生と死との強調に違いない。そもそもここで鼻血という「日常の中の小さな非日常」を持ち出すところが川端のすごいところだ。
更に更にすごいのは、最後のわずか八行である。「私」のこころの内から、物語は一気に日本の暗部を絡み取っていく。そうして最後には、(もちろん単純に比較できるものではないが)一個人の死を越えて、祖父の墓がある山全体が死の恐怖にさらされる。
まさにこの掌編集は「針一本落としてもなにか崩れそうな七月の正午前」に読むのがよろしい。

ね、わたしの案内で読みたくなりましたでしょう(笑)
大切なのは、何ものか→田村先生→学生→平野→脳内探訪を読んでくださった方という読書菌の感染なのだ。

追記
この脳内探訪をアップして3時間もしないうちに6人の方々から買って読んでみます、というメールをいただいた。新潮社さんから何某かをいただかなくては(笑) ウソ 
それにしてもこの内容をこの価格で手に入れられるなんて、やっぱり出版文化ってすごい。今更ながらに版元に感謝。



kabuki



◆梅雨もまだ明けぬ文月、「正札附根元草摺」 「義経千本桜 〜下市村茶店の場 同釣瓶酢屋の場」、松竹大歌舞伎を観て充電(歌舞伎も浄瑠璃も深手をおってからが長い・笑)。山崎のハイボールで喉を潤して、さぁ、夏の中盤戦へ。



yamazaki



hiru



笹団子、おいしいな〜

それから「PUPAN」http://www.selecteye.co.jp/と「セレクトアイカンパニー」とあの人とこの人と、こっちのアーティストとあっちの元学生とこっちの学生とこういう関係でつながっていたんだ〜と今日になって判明。世の中って狭いね。


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