「希望学」ってなんだろう 〜東京大学の試み
写真にはほとんど写っていないが、雲のまにまに見えた日食。
◆打合せと打合せの間がちょうどいい塩梅に空いたので(というか、無理矢理空けたのだけれども)、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を観る。破はもちろん序破急のこと。前作「序」に続く「破」というわけだ。この「型」にも構成上のヒントが隠されているような気がする。
マニアの間では、劇場版はTV版とどこが同じで、どこがどういった意図で変えてあるかが見所の一つとなっているようだ。だがわたしはそれよりもキャラクーの所作や一つ一つのアングルの方が気になって仕方がなかった。そうか、ストーリーもさることながら、これこそがファンの心を惹きつけてやまない「見せ方」なんだと観察した。
音楽の使い方も意外だった。あれあれ、冒頭のこの音は某有名キャラのSE(サウンドエフェクト)の借用ではないか・・・。
◆7月22日には皆既日食(国内陸地観測46年振り。次回は同条件で26年後)を観る。物凄く感動したかといえば、ちょっと諸々の条件が気になって怪しいところだが、なになに、やっぱり肉眼で観る天体ショーは、それなりの感動を呼ぶものである。
その時刻、わたしは地元静岡市で上空を見上げていた。
本来なら肉眼での観測はひじょうにリスクが伴うものだが、なんと幸運にも流れゆく雲という天然フィルターが観測の手助けをしてくれて、短い時間だったがクリアカットな日食観測となった。鳥は飛ぶのをやめ、虫は啼くのをやめた。もともとかなり曇っていたので気温の変化(体感温度)はあまり感じなかったけれど。
◆東京大学社会科学研究所が、2005年から学問の領域をまたいで「希望」をキーワードに新たな学問「希望学」を立ち上げた。
第一印象では、「希望などという主観的で漠然としたものが学問となりえるのか」 「そもそもこの課題は社会科学が扱うことなのか」 「視点やジャンルを広げるのは比較的簡単だけれども、そもそも希望の定義をどうするのか」 「希望が他の言葉で簡単に置き換えられるようでは、希望学として成立しないのではないか」といった疑問がいくつも浮かんできた。
既にこの希望学の成果は四冊の本となって出版されているようだ。検索してみたら東京大学出版界のサイトには以下のような文章が寄せられていた(「希望学 刊行にあたって」より)。
「希望学は,希望と社会との関係を切り開く,新しい挑戦である.希望の意味,そして希望が社会に育まれる条件などを考察する希望学は,経済学,社会学,政治学,法学,歴史学,哲学,人類学などを総合した独自の研究である.理論研究にとどまらず希望学は,岩手県釜石市を対象に,他に類のない総合的な調査を実施するなど,地域密着の研究も行ってきた.失われた10年から世界同時不況に見舞われた現在(2009年)に至るまで,「希望は失われた」という言説は,社会に蔓延している.その理由は何だろう?
収入や仕事などの経済要因に加え,年齢や健康なども希望には影響を及ぼす.景気停滞,人口減少,メンタル・医療問題など,いずれも希望喪失感の背景をなす.希望には,対人関係も深くかかわる.コミュニティや家族の変容,個人の社会的孤立といった問題も,希望の喪失を招いてきた.希望学は経済的・社会的要因と希望の相互作用を丹念に解きほぐしていく.希望は,未来を展望するための行動指針と同時に,挫折を含む過去を想起し,現実を受けとめるための想像力の源泉でもある.ときに効率性の尺度すらスルリと乗り超える希望は,幸福の追求や行動を喚起するための「物語」である.哲学者ブロッホが語る「まだない存在」としての希望が象徴するように,希望はいつもどこかパラドキシカルだ.「まだない」からこそ,求めるべき対象として,希望は「存在」する.希望は,画一的な理解を拒絶する「怪物」である.個人の次元で語るのと,社会の次元で語るのでは,希望の意味はおのずと異なる.その違いを理解することなく,政治が安易に希望を語るのには危険性すら孕んでいる.希望に対する理解の共有が,今こそ求められている.心の問題であると同時に社会的な次元を持つ希望.「まだない」ものでありながら,現在の人々の行動を支える希望.そんな希望の両義性を,希望学は多様な角度から探っていく.さらに希望学の釜石調査は,地域の希望を模索するとき,ローカル・アイデンティティを基盤に対話とネットワークの形成が鍵を握ることなどを具体的に明らかにする.「希望学」(全4巻)は,希望学の研究成果から特に重要な内容を厳選,書き下ろしを多数加えて構成される.読者が,希望を通じて社会科学全般へ関心が高まるよう工夫もしている.そこから社会や地域の新たな考察に不可欠な「希望」の姿が明らかに示される.「希望学」を知らずして,今後,希望は語れない. 東京大学社会科学研究所」
なるほど希望とは「物語」であり「怪物」であり「(その時点で)まだその場にないからこそ(求めることで)存在する」ものなのである。まさにこの心の動きこそが、希望そのものというわけだ。
近年、政治も広告も少し安易に希望を語りすぎている。そういえば元首相福田康夫が総裁選のときに掲げた「希望と安心の国づくり」というスローガンを見たときに、何かとてもしらじらしいものを感じてしまったのはけっしてわたしだけではなかったはずだ(別に与党嫌いだと云いたいのではない)。
そんなときに姜尚中の『希望と絆』(岩波書店)を、無意識に手に取り、何気なく読み進めた。「一人では生きられないから社会がある」。この本を貫くテーマである。なるほど。これこそ希望学を語る際の最初の一滴にふさわしい文章ではないかと考えたら何かがゆっくりと氷解していった(後にわかったことだが、姜尚中もこの「希望学」の開拓チームに係わっていた)。
萩原朔太郎に「旅上」(詩集『純情小曲集』より)という詩がある。
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
希望などと一言も言っていないが、これこそまさに希望が湧き出す瞬間をみごとに捉えた作品ではないだろうか。
わたし自身、希望というものを学問的に深めるということがどういうことか、まだきちんとわかっているわけではないが、「ここにはきっと何某かの希望がある」と思っている。注目していきたいジャンルのひとつである。
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