平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

キャッチフレーズを入れたくなると云った理由(※きっとまだ二三筆を入れるだろう)

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今年も庭にトンボが来ています。指を差し出すとしばらく休憩。これ、シオカラトンボでいいですか? 詳しい方、教えてください。
Tさん、今年は亀池の掃除をお願いしますね。バイト代は出ません(笑)



さっそくTSさんからメッセージをいただきました(以下、部分)
「トンボですが、後ろ羽根の付け根に黒い紋がありので、シオカラトンボではなく、オオシオカラトンボのオスではないかと思います。トンボの種類は多く(平野さんでしたら“秋津島”という言葉をご存知かと思いますが。)、オオシオカラトンボだと思っていたものが、実はクロスジシオカラトンボだったりすることがあり、中々奥が深いです」。
そうそう、TSさん、“秋津島”ってこのことですよね →http://www.s-liv.com/column/iroha/35.html

ちなみに「色はにほへ都」はその後も続いているのですが、リビング新聞社さんのサイトが大幅に変わり、原稿がサイトへ反映されておりません。

◆この本がすごい! と云い回っている人が、その本を読んでいるとは限らない。




◆掛川市の「女性会議」で講演をしたあと、そのまま移動して清水のスノドカフェでアーティスト古池大介さんhttp://furuike.blogzine.jp/blog/の話を聴く(2009.7.11)。テーマは「セレンディピティー 写真・人・サイト」 キーワードは「場・ポテンシャル・メディア・関係性」。自分なりに、さまざまなことを考える良い機会をいただいた。感謝。
感想を云う場面でわたしは古池さんの組み写真に対して、「この作品には職業柄キャッチフレーズをいれたくなる」と発言して、会場から失笑?を買った。
このことについて、真意が伝わっていないように思えたので、多少この場に記しておきたい(以下括弧だらけの文章。作品がこの場に掲載できないので、わかりにくいかもしれない)。

まず最初に書いておきたのは、この場でわたしは古池さんの作品を論じたいのではない(そんな目利きでもないし)。また、好きとか嫌いとか、個人的な好みを云いたいのでもない(個人的な好みなどあまり意味がないし)。同時に古池さんが作品を通じて何を伝えたいかを改めて代弁することもしたくない(ご本人が既に述べているので)。
アートというのはいろいろな評価軸というものがあるが、わたしがこの場で書いておきたのはあくまでも「なぜあの場で古池さんの作品を前にしたときに、そこにキャッチフレーズを入れたくなったかというわたし自身の心模様」である。

写真というビジュアルにキャッチフレーズを入れたくなる行為は、写真を単独で見たときにそこにメッセージ性が足りないからではない。それはむしろ、写真単独、あるいは「シャッター以前」にビジュアル・メッセージが完成されている場合におきる。それは完成してしまったものを敢えてもう一度解体したくなる行為である。
古池さんの二枚組の写真(タイトルを失念。写真は遠景、望遠レンズ、モノクロ。全体が海と空の光を拾って、特に岩場とそこに立っている人物二人はシルエットに仕上がっている)二人の登場人物が度胸ダメしのためか岩場からジャンプしようとしている。海を背にして向かい合った一人の方が、飛び込みをためらっているようにも見えるが(ここまでが写真1枚目)、やがて意を決して今まさにその体がふわっと宙に浮いたところ(これが2枚目。厳密には、まだ完全に体が浮ききっていないように見えた。ムービー的にいえば、ふわっ!と体が浮き上がる3フレーム手前)を撮った作品だ(この偶然という「場」に出会うことがセレンディピーティーだと古池さんの解説が入る)。
要するに、1枚目を見たときに2枚目が既に予想できるこの作品は、「この時点で既に作品が完成されている」のである(くどいようだが作品の善し悪しを云いたいのではない)。この既に完成されている作品に対して、わたしはキャッフレーズを忍び込ませたくなり、作品そのものを解体したくなったのだ(改めてこんなふうに云っているが、作品そのものを解体したくなるという行為は作品鑑賞では普通におきていることだ)。
また、二枚の扉を、シンメトリーで写し取った古池さんの作品(作品名は「ツインズ」?)は、写真の持つ連続性という動きの中の偶然性よりも、むしろテーマや意味をもった存在に出会ったというセレンディピーティーに重きが置かれている。これも作品として既に完成されている。いや、作品になる前の「物自体」で既に完成されている。古池さんがこの物自体をセレンディピティー的に発見したときに、既に作品になっていたのだ(本来考えなければないのは、どの時点から「作品」なのかということだ)。
古池さんの作品ではないが対照的な例を挙げるなら、カーテンがふわりと風で揺れている写真があったとする。それは写真家の眼が7〜8割はその動きを予測できたとしても、残りの動きや気配はできあがりを見なければ確認できない。この風に揺れるカーテンの前後に、まだ予測不可能な小さな出来事が連続して起きるからである。こういった写真にわたしはキャッフレーズを入れたいとは思わない。そういうことだ。
いずれにしろ、こういった「既に完成された作品」に対して「解体を試みる」ために、わたしはキャッチフレーズを入れたくなってしまうのである。これはわたしの超個人的なクセなのかもしれない。だが、このことは無自覚なでやったり云ったりしていることではないということを申し伝えたかったのだ。

また、会場から出た意見で、既存の文脈をいかに壊していくかが現代アートである、という定義の仕方にもある意味においては賛成できるが、果たして現代アーティストたちは、既存の文脈を壊そうとして作品をつくっているのだろうか。
特に現代アートでは、むしろ出来合いの文脈が先にあってそれを壊そうとしているのではなく、得体の知れない自分に絡みつく何ものかと格闘した結果、想定外の「場」にまでメッセージが届いてしまい、そこをフィードバックして観察したときに、自分の作品が新しい文脈をつくっていたという流れの方が圧倒的ではないか。要は、既存の文脈を壊していくのではなく、ある方向に偶然メッセージが届いてしまい、「ここ」と「そこ」の間に新しいアート・シナプスといもいうべき神経系が偶然できあがってしまうと見る方が自然ではないか。

それからもうひとつ。こういう「場」の進め方のことだが、最初にモデュレーターが投げかけた問に対して、もっと会場から広く意見を吸い上げて、「見方の幅」をつくってからゆっくりと、丁寧に議論を進行した方がいいのではないだろうか。
きっと大半の参加者は、自身の考えを整理しているうちに、話は明後日の方向に進んでしまっているのではないだろうか。発言しないのが悪い!のではなく、学校でもない、単なる講座でもない、こういった「場」には、新しい議論の深め方も期待されている。わたしはそう思う。

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◆中学生6人に集まっていただき、女性と男性のものの見方や時代の観察の仕方について意見をもらう。進行役を務めていただいたB大学Oさん、S大学のKさん、ありがとうございました。お二人の進行手腕と膨大な準備に改めて感謝。
年齢が近いとやっぱり意見を言いやすいんだろうね。


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