エネルギー・問題
思い通りにならない相手をいくら責め立てても、結局何も解決しない。立場が違えばどちらにも「政治的な言い分・言い方・言い訳」が存在する。よって、こちらがいくら「正しいのはこうだ」「こうあるべきだ」という立場で夜目遠目から正義をふりかざしていても、絶対に何も変わらない(情報過多の時代のせいか?悲しいかな最近は筆にも時代を変える力があまりない)。
なぜなら、相手はこちらが思うほど「それ」について重要な案件だと思っていないからである。あるいは相手には他に優先しなければならいことが山のようにあるからだ(それは意外とつまらないルーチンワークだったりする)。もちろんこちらの用件や意見が何某かのルートで目的の相手に届いていたとしても、意見を発する側の威圧的な態度に触れることが億劫で、敢えて接触を避けるケースもあるだろう。
そういう場合、わたしなら(それが真に重要なことだと思えば)懐に刀を忍ばせ、ニコニコしながら相手の土俵へとあがっていく。
よくいう「大事なのは現場主義・現地主義」とはそういうことじゃないかとおもう。現場に行かなければ発見できないことはたくさんある。誰もがわかっているこのことは、いくらわかっていても、そうする人は存外少ない。なぜなら厄介で面倒で時間ばかりかかるし、「そんなこと」を解決しても誰からも評価されないからだ。そうして「他のことをやっていたほうが有益だし、わたしのためになるし、そもそもわたしにはやらなければならないことが山のようにあるのだ」という無意識へと帰着する(わたしは「プラス思考」を云いたいのではない。この「脳内探訪」には何度か書いてきたが、「プラス思考」はかえって苦手である。自らの「負」をきちんと受け止め、負と共存しながら、どうやったら前へと出て行けるかが肝心だ)。
問題を解決する唯一の方法は、やっぱり自らが現場に出て、現場で関係者と直接膝をつき合わせるしかない。わたしはそう思う。その場合でも、声を荒立てて叫んでみたところで何も解決しない。怒りの分量と同じだけ、膨大な虚しさが自分の中に残るだけだ。こちらの考える正義の100を受け入れろ、ではなく、フィフティ・フィフティにいかに持っていけるかが話し合いというものだ。話し合いで大事なのは、論理の正しさよりもむしろ冷静さである。良いか悪いかではない。そうやって徐々に、少しずつ、少しずつ変えて行くしかない。国際問題を見ていればよくわかる。自分の領地で大声を張り上げていて、自然と解決した国際問題をわたしは一つも知らない。大事なのはいかにして同じテーブルにつけるかである。
それがどうしてもイヤだというのであれば「革命」がある。人任せにしないで自分がトップに立てばいい。一人が心細いなら組織を立ち上げて活動するのだ。もちろん人望が問われるし、大きなリスクが伴う。そもそもリスクのない革命なんかない。
実はもう一つとっておきの方法がある。それは自分が「許せない不自然なその現場」からとっとと「無言」で立ち去ることだ。立ち去ることをわたしはけっして卑怯だとは思わない。むしろ喉から血が出るほど叫びながら、しかし一方で「饒舌な傍観者」として居続けることに大きな違和感を覚える。何よりも格好が悪い。
つい先日もそんな現場に立ち合った。エネルギーの使い方が勿体ないな〜とつくずくおもう。
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