「運」じゃない「縁」である。「キャリア」じゃない「教養」だ。
お小遣い、なくなっちゃいますよ。手ぶらで寄ってね。ダイエットに配慮したドーナツというのが泣ける。
学生たちの何人かが、就活の結果を知らせに寄ってくれる。メールで今こんな状況ですと知らせてくれる学生もいる。その中には、思い通りの職場を約束された学生もいれば、第一志望ではないけれど決まったところで精一杯がんばろうとしている学生もいる。そういう知らせを聴く度にわたしは心の底からうれしく思う。疲れも吹き飛ぶ。何もできないけれど、とにかく本気で応援したくなる。
わたしは、今流行の「キャリア」という言葉が少々苦手である(「スキルアップ」も苦手である)。それって嫉妬でしょうと言われれば素直にそうかもしれないと思う。ハッキリと言ってしまえば、キャリアという文脈において自分自身のポジションがまったくみつからないからである。
もう一つの理由は、わたし自身、キャリアにしがみつき、それを誇示する人よりも、教養、そして教養人こそを常に重視しているからである。
負け惜しみではなく、キャリアなんかなくても、とんでもないすごい人はいくらでもいる。とにかく今、教育の場に「ビジネスの言葉」が飛び交いすぎているのだ。そう感じているのはけっしてわたしだけではないだろう。
大きなプレッシャーに押しつぶされそうなった人間を、その窮地から救い出してくれるは、「わたしのキャリアでこんな窮地なんか乗り越えてみせる」という力強い宣言ではなく、「こういった苦しい場面を先人たちはどのように乗り越えてきたのか」と古を稽(かんがえ)る謙虚な教養だと信じて疑わないからである。
就活は「運」では決まらない。それはむしろ「縁」で決まる。内定が出るということは、学生と企業(組織)の間に「関係という縁が跳ね起きる」ことだ。昔の人、特にブッディストは縁が起きることを縁起がいいと言った。もっと言えば縁起というのは「兆し」である。兆しは「萌し」とも綴る。すなわち、縁起とは「関係」が萌芽するその瞬間をつかまえる力そのもである。それは間違いなく教養から生まれてくる。
こちらのチームさんも、手ぶらで来てね。
こっちのチームさんも、いつもいつも、ありがとう〜 よろしくね〜
こちらのチームさんもお疲れ様でした。
「静岡大学はどこにも負けないすばらしい大学です」という学生の発表に心を打たれた。いつもいつも、学生たちのやる気と本気に、ほんと、助けられています。ありがとうございます。握手、握手。握手、握手な気持ちです。
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