平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

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ツバキの落ち方 〜吉村冬彦『柿の種』

tubaki


在野の博物学者とでもいったらいいのか、深津正という人の「ツバキの落ち方」という文章がとても興味深かった。深津は、中村浩博士著『植物名の由来』の「キツネアザミは眉掃にもとづく名」という文章にこんな下りを見つける。

「 “一人静ひっそりと咲く藪の蔭” などという俳句は、嘘っぱちも甚だしいものである。俳人の中には、ろくに実物を知らず、実地の状況を見たこともないのに、勝手に想像をたくましくして、迷句をひねりだす人がいるが、困ったことである」
「もう一つ、ついでに俳句の悪口をたたいてみると、吉村冬彦氏の『柿の種』という随筆集の中に、椿の落花のありさまを詠んだ漱石の句が載っている。それは“落ちざまに虻を伏せたる椿かな”という句である。この句は、巧みに椿を表現しているようにみえるが、実際にこのようなことはありえない。椿の花は、花が終わると、花冠とそれにくっついている雄しべの束が一緒に抜け落ちて地上に落下するが、花の下部(筒になっている部分)が重いので仰向けになって落下する。(中略)したがって、この句は事実をあらわしておらず、素人の想像の産物といえよう。名句かも知れないが、植物学的には迷句である」

冬彦とは漱石の愛弟子の文人で、サイエンティストでもある寺田寅彦のことである。
で、筆者の深津は中村博士の上の文章を睨みながら、冬彦が実際には何と書いているか原文を引用しながら、自身の自宅の白花ヤブツバキと白侘助を使って落下の状態を観察する。そうして、何回も花を落とすところを自身の眼で観察し、漱石が実際にこの見たままを書いたのか、あるいは想像で書いたのかは判らないが、確かにうつぶせになったものもあるという観察結論を導き出す。
深津の筆はさらに “一人静ひっそりと咲く藪の蔭” の句を断じた中村浩博士の文章に苦言を呈す。
もっと驚くのは、深津は中村のこの文章だけでなく、『植物名の由来』全般について批評を試みたくなったと書いている。このしつこさがたまらなくいい。
我々は植物学者の文章というだけで、それを鵜呑みにしてしまう。この深津の短い文章には、どういった態度で文章に向かうべきかということが、短くも的確に書かれている。


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