なぜ今モーリス・メルロ=ポンティを読まなければならないかという埋め草
先日のスノドカフェの件(模倣http://www.hirano-masahiko.com/tanbou.html
)で、学生から「そもそもメルロ=ポンティがなぜ今重要なんですか」といった携帯メールもらい、また昨日Eさんとのランチの中でもこの講座のことが話題になったので、そのことをわずかだけれども書いておく。
そもそも通説に倣うなら、近代の幕開けはルネ・デカルトの命題「我思う、ゆえに我あり cogito, ergo sum(コギト・エルゴ・スム。片仮名表記はコーギトー・エルゴー・スムもある)」(『方法序説』より)に始まるといわれている。なにをもって近代というかは諸説あるだろうが、デカルトの肉体と精神を切り離したという点(視覚中心社会の到来)は大きいだろう。このあと、決定的なのは、ネット社会の到来によって肉体と精神は加速度を増して乖離していく。
まあ、いろんな人がいろんなコトを云っているが、メルロ=ポンティは、簡単にいえば「我思うというその前に、肉体がちゃんと対象を感じているでしょ。視覚(身体)が対象を捉え、それから我思うんじゃないか。だからcogito, ergo sumという命題はおかしい。そもそも肉体と精神をわけて考えるなんてノンセンスだ!」といったわけである。ここから、メルロ=ポンティの身体論は始まり、見る、模倣、ズレという考え方を「再発見」していくのだ。
肉体と精神の問題は「身体論」という名で今再び注目を集めている。これは、前述したようにネット社会による肉体と精神の断絶という問題から発生してきた課題でもある。
ちなみにこれはホロンさんhttp://www.hirano-masahiko.com/tanbou/348.htmlのブックデザインです。
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