平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

『道元』と『007』

007


先日、打合せと打合せの隙間を縫うようにして映画『道元』と『007』を一日で観た(このぐらいの贅沢はお許し下さいね。打合せ→道元→打合せ→打合せ→007→デスクワーク    ね、真面目でしょう〜)。
しかし、この全く違ったタイプの二本を一日で観ると、なにやら頭の中が混乱しますな〜。


 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり

ところで宗教や宗派を超えて、カノンとしての道元を読む人は今(も昔も)いったいどのくらいいるのだろう。『正法眼蔵』は、わたしの中でももっとも難解な書物の一冊だった。学生時代、ゼミの教授から勧められて手にしたのが最初で、そのときには全く歯が立たず、そのあともずっと本棚の奧で埃をかぶったままになっていた。
それが何かの雑誌で上に記した歌が道元だと知り、なるほど〜と膝を打ってからというもの、いそいそと『正法眼蔵』を取り出して、ゆっくりと正面から組み合ったら、それがだんだんと自分なりに読めるようになってきた。そうして機会を捉えては坐禅のまねごとのようなこともしてきた(座禅と書かないようにね)。
道元は、ただただ坐した。只管打坐(しかんたざ)。悟りをひらくために坐するのではない。それを目的にしてはいけないと弟子たちに教えた。それが道元の教えの第一義である。また問答を重視した師は『弁道話』(『正法眼蔵』の第一巻)を通してその重要性を教えている。
そもそも道元は宗に渡り、曹洞宗の印可を授かって帰国する際、他の僧侶が経典を山ほど抱えて帰国した中で、一冊の経も持ち出さず、そのすべてを頭に入れて帰国したと云われる(南方熊楠のようだ)。


あぁ、道元を書き出すときりがない。道得、密語、見仏、春秋、古鏡、葛藤・・・これからも少しずつ咀嚼していこうとおもう。え、『007』ですか? どうぞご覧下さいませ。

薪灰となりぬるのちさらに薪とならざるがごとく人の死ぬるのちさらに生とならず

さて、仕事に戻ると致しましょう。

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