バスの昇降ボタン 〜もっとも基本的なデザインの話
バスの昇降ボタンがずっと気になっている。それは乗るバスによって昇降ボタンの位置がまったく違っているからだ。何事も即座に判断を強いられることの苦手なわたしは、いつもボタン探しに目線が迷子になる。お年寄りは戸惑わないのだろうか。目の不自由な方はどうなのか。手を伸ばした先にボタンがない、それは想像以上にストレスを生むのである。
キョロキョロしたあと、自分の声でピ〜ポンと声に出して、失笑をかったおっさんの話があったけれど、これは作り話じゃないような気がしてきた。わたしも、もうちょっとでこのおっさんの二の舞を演じてしまいそうになったことが何度かある。
いじわるだから先回りする。はじめに云っておくと、これは特定のバス会社へメッセージではない。わたしの経験では、東京でも同じ、広島でも同じ、和歌山でもまったく同じだった。新旧型の入り乱れるバスの中で、それはしょうがないでしょう〜というのがたぶんバス会社の言い分。しかしそれで通ってしまうのか? わたしはまずい!と考える。これはバスのトータル・デザイン、長中期的デザイン計画が不在なのだ。「人が自然と手を伸ばした先に昇降ボタンがいつも設置されている」というのが正しいありかただろう。カーテンのカゲに隠れたり、まるで鉄柱のカゲに隠すように設置されていたり、乗ったバスごとにボタンの位置が違っていたら、これはやっぱりデザインとして正しくない。バスの中で昇降ボタンの宝探しはごめんである。
バス会社殿、もっていかんとなす。
バスの昇降ボタンの話で連鎖的に思いつくこと、二つ三つ(くどいようだが、特定のバス会社だけをいうのではない)。
まず第一に、あのバス車内に造花を飾る感覚を何とかして頂きたい。よく見るとホコリがたまっていて不愉快になる。同じ花を飾るなら他の方法もあるはずだ。なぜ当たり前のように造花なのか。アレンジメントと言い換えればすむ話か。お客さまが何も意識の行き届かないこところを事前に察知して、そこに改善のメスを入れていく、それが企業のブランディングだ。何事も当たり前になっている麻痺した感覚に早く気付きたい。
それからもう一つはバス停のデザイン(地方の電車の駅も同じ)。これもまだまだ考える余地が残されている。第一、あんなに汚れているベンチにだれが座るのだろう。地面に座る若者ですら、汚れているベンチには座りたくないという。何とも皮肉な話だ。別にベンチのカタチをしたベンチである必要もない。短時間であれば、人は体が寄りかかるアーム一本あれば、体を休めることができるものだ。その点、鳥も人も変わらない。
最近トイレメーカーやエアコンメーカーが開発した自らが洗浄する素材と機能、この応用だって可能なはずだ。それから色の問題も考えてみたらどうだろう。そもそもバスのデザインとバス停のデザインがなぜトータルに考えられないのか。不思議でならない。
「できない」理由は聞きたくない。どうしたらできるかを考えたい。発明の歴史は、気づきと発想と変えていく勇気の連続の上にある。
蛇足1:ちなみに、時刻で動くバス車内に時計のないのは、お客様のイライラ感を軽減するため。だって、時間にうるさいと人の目の前に時計なんてあったら大変でしょう〜。
蛇足2:ちなみにラッピングバスが街の景観を下品にしているという批判がある。バス会社の広告審査はないのだろうか(デザインに対しては基本的にないはずだ)。そもそもアジア人は、まちの看板、標識類が「見えても見えない」という特殊能力が発達している。それでなければ、ふつう気がおかしくなるでしょう。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/584.html
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