山里と里山 〜内山節の哲学
◆哲学者 内山節TAKASHIさん(立教大学)の話を伺う。内山さんは哲学史の研究者というよりも、実際に哲学する哲人である。森林に分け入り、森林を通して日本の未来を深く見据える人である。
その内山さんは我々に問いかける。
「山里と里山の違いは何ですか」
里山という言葉を我々はあまりにも無自覚に使っていることに気付かされる。
里山と付くだけで、何のアイデアもない企画に、おおくの都会人が集まる。これは昨今の「環境問題ブーム」「里山ブーム」のせいである。
この「里山」は意外と新し言葉だと内山さんは教える。京都大学で森林生態学を研究する四手井綱英氏が1970年代に使い出した言葉だそうだ(1974年「日本の森林」という論文が初出)。一方、山里はかなり古い言葉で新古今和歌集に既に登場する(ともに年代、出典は平野調べ。語義は各自調べてください)。
内山さんの興味は里山よりもむしろ山里にある。
山里、その根底には「目には見えないもの」の権現思想があり、自然(じねん)が山の姿になって現れる山岳信仰や修験道と深く結びついているのだそうである。今の日本はもう一度その「目に見えないもの」にこそ注意を傾けるべきだと説く。
「技を尊重し、その技がつくりだしたかたちを大事にする」
「人間の結びつきを尊重し、そこから生まれた儀礼や習慣を大事にする」
「みえない文化を尊重し、ゆえに文化のかたちを大事にする」
あれ、これっていつもわたしが云ったり、書いたりしていることと全く同じじゃない。著名な哲学者と肩を並べるような書き方をして大変に僭越ではあるが、かなり根本的な部分で考え方を共有しているようにおもえてならない。内山さんの十数冊に及ぶご著書を拝読したことはまだないが、さっそく買い求めた本から、もう一歩深い思想体系に踏み込んでみたい。
◆テレビ静岡の「パロパロ」に出演。「地方の数だけ鍋があり、家庭の数だけ味がある」。鍋は不況の味方である。あ〜、鍋の季節ですね〜。
◆最近、お久しぶりの地元静岡人に、東京でばかり顔を合わせる。
バックナンバーはここ↓から。「表示件数」を「100件」に選択すると見やすくなります。