ほめて育てる?
◆先週は福岡へ打合せに行って、駅前の喫茶店に入って帰ってきた。仙台へ行って駅前を闊歩して帰ってきて、名古屋へ行って駅のコンコースのカフェに座って帰ってきた(苦笑) そうして、静岡大学の大学祭へと駆け込んだ。ほっ。ゆっくり温泉に入りたいな〜
そんな中、先々週だったかな?Rさんに案内して頂いた久しぶりの下北沢は、懐かしくまちの空気を深呼吸してきた。下北沢も再開発が間もなくらしいから、例の老猫が店番する老舗のおせんべい屋さんもなくなってしまうかもしれない。だれもが経験している「あれ〜、前ここ何だったかな〜」という程度が、街の記憶というものだ。さびしい。
◆スノードールカフェの柚木さんと来週の「私(マイ)風景」展の打合せ。お客の平野が役者の平野で、マスターの柚木さんが役者のマスターで・・・何のことやら(笑)・・・本番につづく
スノードールで購入したMASAKI MATSUSHIMAのグローブ。今年の冬はこれで乗り切れるか。いいでしょう〜。
◆演劇の演出とCMの演出上の圧倒的な違いは、役者やタレントとの距離にある。演劇は同じ釜の飯を食っている普段からの運命共同体、家族よりも劇団員といる時間が長い。一方、CMの方は役者(タレント、モデル)と、演出当日にはじめて顔を合わせる場合もある。もちろん事前に企画意図や絵コンテを伝えるためにお会いすることはあるが、それも普通一度か二度の数時間程度である。なぜそうなるかは単純な理由で、売れっ子のタレントになればなるほど事前の拘束が困難だからである。
この両者の演出に及ぼす影響は大きい。
たかだか15秒のCMをつくる程度だからそのぐらいでいいんじゃないと思われるかもしれないが、CMの演出は短いからこそ大変なのだ。多いときには、同じテイクを40回も50回も撮る。中には、水をかぶるシーンなどがあると、タレントの体力とそのための大道具・小道具など美術の準備で、そうおおくのテイクを取れない場合もあって厄介だ。現場に緊張が走る。
そういえば思い出した。まだわたしが駆け出しだったころ、ある企業のCMの撮影現場での話だ(以前もどこかに書いたような気がするが、また書いておく)。
わたしはあるタレントの歩くシーンを一発目でOKを出した。そうしたらカメラマンからすぐに「監督〜、画面の前をハエが横切りましたがそれでもいいんですか〜」というつっこみが入った。これは「あんた、何にも見てないでしょう。監督失格ですぜ!きょうはもう撮りたくないな〜」という、カメラマンから監督へのダメ出しなのである。わっ、全くハエの存在など気付かなかった。当時は、ビデオのように監督や演出が撮影しながらモニターチェックができるわけではなかった。「今撮っている映像」が見られるのは、カメラを覗いているカメラマンだけなのだ。監督は、レンズから画角を想像して、周囲やタレントのアクションや天候など、あらゆることに注意を払い、即座にOKかNGカットかを判断しなければならない。それによって、スタッフ数十人がまた同じ準備を繰り返さなければならい。予算にも大きく響く。その日のうちに何カット撮らなければならいか、残りは何カットあるのか。時間割すると午前中に・・・陽が落ちるまでにあと何カット撮れるのか。何より現場の仕切を間違うとスタッフの全員のやる気が失せる。CMの現場というのは(もちろん演劇や映画なども)胃がギリギリする、とんでもないプレッシャーの場なのである。この重圧(本当にすごい重圧)に絶えきれず、すぐに辞めていく新人もいる。
で、わたしはこの日、汗をかきながらテイク2を撮った。わたしはそのアクションにもすぐにOKを出した。すると今度は照明から「監督〜、今一瞬雲がかかって暗転しましたが、それでもいいですか〜」とNGが入った。わ〜、もう監督としての立場が全くない。
テイク3 「監督〜 今 後の方で自動車が通過しましたが、それでもいいんですね〜」
テイク4 「タレントさんの、手の動きが不自然ですよね〜 それでもOKなんですか〜」
テイク5 「監督〜、きょうはもう辞めておきますか〜」
きょうはもう辞めておくって、予算も次の予定もありません。しかも週末オンエアなんですが・・・(汗)
みなさん、言葉はとてもおだやかである。だからこそ、逆に堪える。
これは新人監督の洗礼なのだ。そうやって、身体で覚えたし、信頼関係はそういう中から生まれる。
そういえば、最近流行の(?)ほめて育てましょう〜、というのは他の動物にはない複雑な感情をもつ人間には一見適切な方法とも思える。だが興味深いことに、オリンピックのほとんどすべての監督が、「ほめて育てることには懐疑的だ」といっている。もちろんトップアスリートの世界は一般の教育の場とは目的も違うし、既にある一定の水準を勝ち抜いてきた選手を育てるのでは意味が違う。
では何が大事か。
叱るという行為でもっとも大切なことは「信頼関係」だ。叱るという行為は、信頼関係の上でのみ成立する。はじめて会ったお巡りさんに叱られて納得するのは、お巡りさんという職業に信頼をおいているからだ(最近どうかな〜?)こちらに落ち度があった場合でも、見ず知らずのおっさんから突然怒鳴られたら「あんたに、そこまでいわれなくても・・・」と何か釈然としないだろう。要は信頼関係なのだ。
とにかく「あなたのことは尊敬していません」という人から正論や正義を振りかざされて怒鳴られるのはいちばん辛い。そこをわかっていないで、ただ感情にまかせて大声を出したり、これが正論だ!というロジックで感情を爆発させたり、正義という文脈だけで相手をねじ伏せようとする大人や教師が多い。それは悲しいかな何も生み出さない。だってそういう人の言い分は「悪いのはすべてあんたの方」だからである。とりつく島がない。
国を超えて正義や正論が伝わらないのは、互いの文化や風習、宗教の違いだけではない。
それは何も大袈裟に歴史を持ち出さなくても、怒鳴る側の大人が「人間関係がうなくいかないな〜、おれって」「わたしって、信頼されていないよね〜」ということで、ご本人がいちばん深く理解しているはずである。
そうそう、若者が社会へ出る際に大切な資質は、この信頼関係をどこまで理解しているかだ。キャリア教育という「スキルアップを伝授する場」でも、このことをきちっと伝えて欲しいと切に願う。
話が思わぬ方向へと走ってしまった。これでいいのだ。
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