『2008ROUTE 日本海~太平洋シンポジウム』
『2008ROUTE 日本海~太平洋シンポジウム』〜中部日本横断自動車道のパネルディスカッションに出演する。
いっしょにパネルに出てくれたのは、chaプランナー相川香さんhttp://www.ochako.com/ochako.htmと初代静岡おでんの会会長・大石正則さん。
とにかく時間が足りない。用意していった道に関するアイデアやポイントの十分の一も話せない。
壇上で話したかったポイントの本当の芯だけを書いておくと、
1,情報は、わざとひっかかるようにデザインする。
2,情報は、敢えて流通させすぎない。
この二点である。
1に関しては、一本の川を思い浮かべて頂ければわかる。真っ直ぐな川は、勢いよく水が流れるだけで、そこには景色も景気も存在しない。大切なのは川の中に岩をどう配置するか、激流や緩やかな流れ、あるいは本流に注ぎ込む支流のデザインである。魚が棲む川、生き物が滞留する川、それを陸上の道にどう活かすかということである。
2に関しては、情報化社会に逆行した言い方にもなるが、昨今モノが勢いよく流通しすぎている。お金さえあれば、全国の美味いモノがいくらでもすぐに手に入る。これはモノの均質化につながる。大事なのは、その場に行かなければぜったに手に入らないモノをどうつくるかだ。そもそも名物とはそういうものだったはずである。今ここで思い出したいのは、お伊勢参りというワールドモデルなのだ。重要なのは、モノを動かすのではなく、人を動かすという視点である。
四国八十八カ所という道も興味深い。沿道の人々は、弘法大師ゆかりの霊場を巡る人々を手厚く扱う。体は大丈夫か、喉は渇いていないか、困ったことはないか・・・彼らは道行く白装束を弘法大師と重ねてみているのだ。今流に云えば、「沿道に暮らす人々は一人一人が道の駅」なのである。
書きだしたら、キリがない。締め切りが三つもあるのできょうはこの辺で。以前書いた道に関するエッセイを貼り付けてきょうは終わりにしたい。
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「道」という言葉は不思議です。なぜ、道に首の字が入っているのでしょうか。え、北海道って道なんですか。わからないことがいっぱいですね。
それをご説明する前に中国の思想家・老子の言葉を引いてみます。意訳はこんなふうです。
「これはあらゆる物が混じり合って成り立っている。これは天地よりももっと先にあった。音もなく、形もない。ただこれだけあって変化もせず、薄まって消えてしまうこともない。これこそが万物の母。名前をつけて良いのかわからないが、仮に“道”という。強いて名付けるなら“大”という」。
これが老子のいう道の概念です。道は母なる根元的なもので、天地に先立ってあったものだと云うのです。そうして、それは本来なら「大」と名付けるものなのだと。
この場合の老子の考え方は道路という意味の道ではなく、道教(タオイズム。老子、荘子の系譜)で云うところの道なのです。
道教の教えでは、宇宙に広がっていて人が自然と動かされている根元的なもの、それを道というのです。
一方、日本で道は、(侵略する相手の)首を下げて歩いている状態を象形化したものです。まだ踏み込んだことのない相手の空間、そういった場所には、祖先の霊がいて侵略者に悪さをする。そこでその霊を封印し、鎮めるために相手の首を持って歩いたのです。その行為を「導く」といい、祓(はら)い清められた道を「途」とよんで区別しました。
意味の似た言葉に「遊」という文字があります。遊は旗竿を立てて未知なる場所へ出かけていく姿を表しています。柱、榊、花笠、そういったアンテナ状のもの(まとめて依代=よりしろという)には神が宿ったのです。
その代表的なものが旗です。少し厳密に言うと、旗を持った人間が進み行くというよりも、神が行くという感覚です。旗は神の乗り物なのです。
戦国時代にも多く見られる戦場へと携える幾種類もの旗にも、祖先霊や神々の叡智を借りるという意味があったのです。
さて、北海道とはどんな道でしょうか。いや、そんな道は聞いたことがありません。元々道とは、ある空間のことを指していて、真っ直ぐにのびている道路のことではなかったのです。
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