平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

文化の重み

mukashi

 ◆京都と大阪のY本さん、M上のお姉さまがたが、「たまにはきちんと古の文化に遊びなさい」と『むかし・あけぼの 〜小説枕草子』(田辺聖子)を贈ってくださった。それをS野さんから頂いたおせんべいをバリバリと頬張りながら読了。
 ところでわたしは、京都、大阪と聞いただけで文化のコンプレックスを感じてしまう。ときどき大阪のアートディレクター雪破兄貴が送ってくださる冊子『新菜箸本撰』(しんさいばしほんえらみ)を見ただけでも、文化の厚みをイヤというほど感じる。それはとうてい乗り越えることのできない歴史という壁なのだ。
 我が身近な地方誌やフリーマガジンの類を眺めた場合にはどうだろう。雑誌という媒体が、歴史の重みをどう引き取っているかという問題だ。わたしは別にそれらの雑誌でいちいち重々しく歴史を語りなさいと申し上げているのではない。ただ、翌月ともなると商品価値のなくなるような情報を、こぞって連打してばかりいては、いつまで経っても文化は築けないと釘を刺しておきたいのだ(そういうものが大量に発行されいるということは、そういうものが広く市民から喜ばれているともいえる)。
 京都や大阪、あるいは金沢では、お菓子を語ってもラーメンを語ってもたこ焼きを語っても文化の香りがする。少なくとも「そう見える」。さりげなく連れて行かれるうどん屋にも、百数十年の歴史があったりする。その舞台でうどんを語られたらかなわない。「うどん」といっただけで、「きつねときざみの違いはね・・・」 「滝沢馬琴が『き旅漫録』で京都のうどんをほめましてな〜 いやいや、馬琴は江戸のプライドがあって他のモノは歯牙にもかけなかったけれど、うどんだけは・・・」 「喜多川守貞が、1900年のはじめのころ、京都と大阪には四五軒に一軒はうどん屋だと書いておりましてな〜」 「いちばん美味そうにうどんを食べるシーンを演じた落語家をご存じですか〜」と、もう矢継ぎ早である。「うどん」といっただけで多重構造的にうどん情報が脳裏に浮かび上がってくるのだ。それはまるで和歌の構造のようにもみえる。
 文化を抜きに彼らは食を語らない。いや、語ればそれが自然と文化になる素地が既にあるのだ。それが歴史の重みというものだ。日本車がいくら優秀でも、ポルシェやメルセデスには、歴史の重みという一点において、一生越えられない壁のようなものがあるのと同じである。もちろん、「いや〜 最近は関西もひどいもんですわ〜」という声も聞こえる。そういった意味で今関西は踏ん張りどころかもしれない。


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