「平野雅彦さん」、こんにちは。 2008/08/22
通りを挟んで同じ町内にわたしの親戚は住んでいる。わたしが二丁目で、その人物は一丁目である。そのためにときどき困ったことが起きる。郵便物が間違えて配達されるのだ。ちょっと頻繁な時期もあった。以前、その人物のお父様が亡くなられたときには、わたしのところにおおくの問い合わせやらお悔やみの言葉が届いた。なぜ、そんなことが度々起きるのか。なぜなら親戚で、同じ町名で、通りを挟んで「同姓同名の平野雅彦」だからである。うひょ〜。
以前、一丁目の平野さん宅に理由を聞いたことがある。ひとこと「良い名前だから」だそうだ。なるほど、納得(笑) ちなみに彼は、わたしよりも十歳ぐらい若い。わたしはここでクレームを云いたいのではない(というか、間違いなく先方は相当迷惑している)。名前による存在の規定ということを少しだけ書いておきたいからだ。
我々は、常に逃れられない何かに規定されている。例えば「時代」がそうだ。今という時代を生きていることは、今の時代に生きている誰にも変えられない。 「俺は大きな屋敷で蹴鞠をしながら、日がな一日することもなく和歌を詠み、平安貴族のような暮らしをしているんだ」と凄まれても困る。
そうしてもうひとつ、我々を規定して、がんじがらめにしているものがある。名前である。「平野雅彦は平野雅彦というネーミングからは逃げられない」。平野雅彦という名前は平野雅彦の肉体を伴って、平野雅彦を演じている。そのためにわたくし平野雅彦は常に平野雅彦っぽさを基準にしながら世間体を保っているし、平野雅彦っぽい生き方を模索し、平野雅彦っぽさを追究してしまう。そんなものは最初から用意されているわけではないが、我々にはそう考える「クセ」がインプットされている。そもそも「わたしの存在は名前によって規定されている」(長くなるのでウィトゲンシュタインの論考はこの場では出さない)。映画『千と千尋の神隠し』で千尋が名前を奪われるのは、一人の人間存在を剥奪して無能力化する呪術である。名前がないということは、あの世でもない、この世でもない曖昧な世に漂うことを意味するのだ。だが哲学はこんな問いを投げかけるだろう。では、「平野雅彦という名前を知らない人間が平野雅彦とある一定の時間を係わって生きていくとしたら、そこには平野雅彦という名前による規定はないだろう」、と。ただその場合にも、わたし自身はわたくし平野雅彦という名前からは開放されたことにはこれっぽっちもなっていない。
特に平安時代までは、特別の関係でなければ相手の名前を直接呼ぶということをしなかった。相手の名前を声に出して呼ぶと言うことは「相手を自分のものとする」ことであり、「自分が相手のものになる」ことを意味した。最初は「あっちのほう」という意味で「あなた」といった。あなたは単純に「you」ではない。「山のあなたの空遠く・・・」は「山の向こう」という意味で「山のyou」ではない。「そなた」「こなた」もそれぞれ、そっちの方(の人)、こっちの方(の人)の意である。
そういえば、最近「一丁目の平野雅彦」さんとはしばらく会っていない。お元気だろうか。それからGoogleやYahoo!で平野雅彦と検索すると何人かの平野雅彦さんが登場する。FMのパーソナリティをされている平野雅彦さん、家具のデザインをされている平野雅彦さん、レーサーの平野雅彦さん、グラフィックデザイナーの平野雅彦さん、NPOの理事をされている平野雅彦さん、研究者の平野雅彦さん、ドクターの平野雅彦さん、スカッシュ選手の平野雅彦さん、会社社長の平野雅彦さん、ショップ店長の平野雅彦さん、小説に登場する平野雅彦さん、懸賞に当選された平野雅彦さん・・・・わたしの夢は、いつか全国規模で「平野雅彦さんの会」を主催することだ。だがそこでは少々困った問題が発生するだろう。それは会場でお互いを何と呼び合うかという実に悩ましい問題だ。
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