漂泊はリアルな野にある
私淑する雪破兄貴(大阪のアートディレクター)のメールに「漂泊」なるワードが出てきた(この人はフツーの会話でこういった言葉を遣う人である)。
漂泊なんて言葉は今ではすっかり死語である。「え、うちはニューブリーチだけど、なにか?」などといわれるのがオチである。そっちは「漂白」ね(汗) わたしの云いたいのは「漂泊」、「漂泊の俳人 山頭火」というときの漂泊である。さんずいがついているから、水のように流れる、すなわち行雲流水のごとく極所へと漂い流れゆく人や生き方、漂い動く態度そのものを云う。「流浪」ともいうし「行乞(ぎょうこつ)」といったりもする。
漂泊は、「去来」や「加減」と同様に、アンビバレントな状態を併せ持つ我が国固有の言語感覚だ。漂はただよい流れ(本来は炎に揺らめく死体)、泊はとどまるの意味だ。まさに、まずそこをつかみきったのが西行である。
『奧の細道』の告げる「片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず」を我が身に引きよせて即座に理解したというのはウソっぽいが、「或時には家を捨てて唯漂泊して歩かうとまで思った事もある」という長塚節の代表作『土』の感覚はわたしにも良く理解できる。しかし、心を静めてみると、芭蕉の云う感覚は間違いなくわたしの中にも横たわっている。それが少しだけ実感できるようになってきたのは、果たして歳のせいだろうか。
漂泊は、書斎にもあれば、一冊の書物の中にもある。書斎派のわたしは、そう逃げ切りたいところだが、やっぱりそれは、まず、リアルな野にあるのだ。
◆本日20日発売の『anan』の特集は「男は顔で選ぶな!」である。うん、その通りだよ。こういう「当たり前のこと」は、だれかがときどき、きちんと声を大にして云ってもらわないと困る。いいぞ、『anan』。
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