平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

オリンピック柔道に見るガッツポーズ



 ◆オリンピックが開幕して、テレビで、街頭で、新聞で、柔道の観戦だけはしている。わたしも元格闘家として、内柴のゴールドメダルは何より嬉しかった。勇ましい面構えである。内柴は芯から強そうな格闘家然とした良い貌をしている。
 ただし、彼の戦い方で残念なこともあった。決勝戦が終わって相手が負傷している横でガッツポーズをしながらその場を去ったことだ。感極まる、その気持ちもわかる。だがこの態度は決して武士道とは言えない。あの場で相手を思いやる余裕があっても良い。いや、あるべきだ。あのとき内柴は勝った自分のことしか考えられなかったのだろう。新渡戸稲造は「武士道」に足りないのは、キリスト教の愛だといった。
 柔道はスポーツか、それとも武道か。そこがおおくの選手の中で曖昧になっている。その結果である。わたしはそう見る。特に国技である日本柔道が国際舞台で負けはじめてその動きは顕著化した。あるいはそれは、元五輪選手がプロの格闘技界にこぞって移籍するショービジネスとの境が曖昧に見えるからだ。そうしてそれは「ショービジネスとしての格闘技の、真剣勝負という見せ方」がうまいからでもある。もちろん「柔道ではなくJUDO」だから当然だという意見もあるだろう。では柔道とJUDOのはざまで「日本を背負って戦う」ということをどう位置づけ、解釈すれば良いのか(良い悪いは別として、選手全員に日本代表の意識は必ずある)。

 特に格闘技の場合、ガッツポーズをしている自分の隣りには、たった今ままで戦ってきた相手が本人の意思とは逆に倒れていることを忘れてはならない。そこでするガッツポーズは、相手を思いやる想像力の欠如以外の何ものでもない。せめて畳を下りるまでガッツポーズはやめて欲しい。それは、いち観戦者としてのわたしの小さな願いだ。
 その点、かつての東海大学山下泰裕選手の態度は常にカッコウよかった。本当に最後までカッコウ良かった。礼に始まり、礼に終わる、それが武道であることを最後まで教えてくれた。
 わたしは常々思っている。武道における「礼」というのはガッツポーズよりも百倍もかっこいい。今ではみんなが揃ってガッツポーズをとる。だからそれを真似して小学生でも中学生でも、全員畳の上ガッツポーズである。ひとりでもいい、黙して礼をし、畳をおりていく者はいないのか。
 たとえば(内柴選手には申し訳ないが)上の写真の内柴選手はみんなの目から見てカッコウ良いのだろうか。果たしてゴールドメダリストとしての品格が漂っているのだろうか。わたしにはどう見ても滑稽に思えてしまう。
 また今回アテネに続く二連覇を達成したゴールドメダリスト谷本歩実は決して美人ではない(失礼)が、あの始終浮かべていた満面の笑みは、決してガッツポーズでは表現しきれない勇者の証である。あの笑顔にころりといってしまった男性も多いだろう(谷本さん、ガッツポーズなんかいらないですよ)。
 「一瞬も 一生も 美しく」と資生堂の「TSUBAKI」は謳う。だが、たとえTSUBAKIは使っていなくとも、戦う女性は、一瞬も、一生も美しい。

SHISEIDO

 ◆偏頭痛がひどくて仕事を三つもキャンセルして、ほぼ一日を棒に振る。薬なんか何にも効かない。もちろんパソコンにも向かえないし、横になっているとはいえグワ〜ン グワ〜ンと押し寄せてくる頭痛の波で本も読めないし、ビデオも観ることができない。ただ横になっているだけで本も読めないなんて地獄である。病気になりそうだ。
 仕方がないのでただ眠ってみる。これが予想外にけっこう眠れるのだ。いつもの四倍は眠った。眠ってみるのは案外良いものだな〜と改めて思う。これからは趣味を睡眠に変えようかとおもう。しかし、そんなことを公言・実践したらとたんにナマケモノとなる。趣味が睡眠では世の中は許さない。事実、履歴書の趣味のコーナーに「睡眠」と書いたとたんに、社会は訝しげに見るだろうし、採用もままならないだろう。


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