展覧会と美術の価格
近頃、美術館や博物館の展覧会が「ひじょうに親切でわかりやすく」なった。ポスターにはとてもキャッチーなタイトルが付き、誰でも美術に親しんでね、美術って敷居が高くないんですよ、ウェルカム、ウェルカム。そう誰にでも差別なくすり寄っているように見える。もちろんそれは美術に触れる機会を多くつくり、間口を広げたという点では評価すべきだろう。が、何か、どこかでわたしは違和感を覚える。美術というのはそもそも広く共有しなければならないものなのか。「同じ歴史はない」という意味で、今はそういう時代が初めてやって来たというのだろうか。
例えば現在開催されている東京国立博物館の『対決 〜巨匠たちの日本美術』もしかり。もちろん観れば観たでひじょうに感動するだろう(観るチャンスを逸している)。だが果たして観る者はこの企画に感動しているのだろうか。本当に対立構造的に描かれたその見せ方に感動しているのだろうか(もちろん事実ライバルだった関係の中で美術を観るのは興味深い)。
ちなみにこの企画は以前、朝日新聞の日曜版に連載されたシリーズ「名画日本史 〜イメージの1000年王国をゆく」が元ネタではないだろうか。
いずれにしろ、そういったキャッチーなタイトルで美術に親しみやすさをつくったのは雑誌『芸術新潮』のリニューアルによるところが大きいとわたしは睨んでいる。手元に『芸術新潮』のバックナンバーがきちんと揃っていないので、何とも言えないが、いつのころからか『芸術新潮』は硬派の鎧を脱ぎ捨て、大衆化路線にハンドルをきった。それは華麗なる変身だった。これだけガラリと様変わりできるタイミングがあるとすれば、編集長交代のタイミングだろう(あまりにもうまく気を惹くタイトルで毎回唸っている。ある意味『an.an』を越えている)。そうしてその『芸術新潮』の動きが、各美術誌やデザイン誌、建築誌に少なからず影響を与えた。それだけではない。その流れが間違いなく美術鑑賞や美術売買のマーケットを広げ、今の展覧会の企画に潜在的に反映されたのだ。わたしはそれを「美術がデザインを意識した瞬間」だと見ている。
今ではおおくの美術館が例えばカタログや記念グッズを「デザイナー」がこしらえている(そんなことはあたり前のことだといわれてしまいそうだ)。画家や陶芸家がカタログや記念グッズをアートディレクションすることはない(もちろんチェックや校正はする)。知らず知らずのうちに美術の世界にデザイナーが入り込んだのだ。デザイナーから積極的に入り込んだのではない。美術館側からプロポーズしたのだ。デザイナーが美術の世界へ音もなく滑り込んでいった時期はきっと『芸術新潮』がリニューアルし、勢いを増したときと重なっている。それはわたしの観察である。
美術は今や完全に消耗品だ。流通というマーケットで消費される「製品」だ。美術の価値を個人個人が決めることをもはやマーケットは許さない。なぜなら美術商や古物骨董商などはその値付けに必ずといっていいほどネットを検索して右へ倣えである。「俺の眼が価格を決める」、もはやそんな時代ではなくなった。昔のようにある一部の目利きが決めるのではなく、美術の価格はオークションが決めるのだ。それも時の運や気まぐれで決まるネットオークションだったりする。
とにかく美術は売れなければ意味がないのだ。そう某ブランドバックのデザインを担当したアーティストが公言している。わたしにはその発言が、例のホリエモンの一連の発言と未だにうまく区別できないでいる。
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