平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

「偶然」と「必然」の関係  2008/07/31

ichiyanagi


 「〈偶然〉は〈必然〉ですね」という言い方がある。「偶然」とは「然るべくして、たまたま(起きる)」という意味だ。すなわち偶然にはあらかじめ「然るべくして」という意味での「必然」が内包されているのである。
 「偶」の文字は、「土偶」や「偶数」とも使われる。古来、人間が死を迎えると、その横に魔除けとして添えられるものとして「土偶」があり、死者に添えられる土偶(ひとかた)が対であったことから「偶数」なのだ。
 なぜこんな話からはじめたかと云えば、偶然にもわたしが先日伊豆で撮影した洞窟写真と、昨日アーティスト一柳綾乃さんが送ってくださった「花火」の作品が酷似していたからだ。比較してみればよくわかる。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/557.html
 花火は天に咲く花。「花」の旧字は「華」。仏教の蓮華などに使われる華の文字だ。華はあらゆる方向に枝葉をのばしている象形文字。彼岸と此岸をつなぐ装置。仏や神に花を添えるのは単に綺麗だからという理由ではない。更に言えば、そういった意味で、天と地、すなわちあの世とこの世をつなぐのが花火なのである。
 仏や神が降臨する世界。一柳さんはそんな世界は描こうとしなかったのかもしれない。彼女の絵はもっと「手放し」で「直感」で「ひらめき」のように見える。だがわたしは彼女の絵からいつもそんな世界観を勝手に読み取っている。



◆ひとりっ子はずっとひとりでいてもへっちゃらである。ひとりっ子のわたしは、この説を本当だと思っている(わたしが小学生のころは一クラス45人の教室にひとりっ子がひとりいたかどうかであった)。
 ひとりで映画に行き、ひとりで美術館に行き、ひとりで本を読む(当たり前か?)。ひとり旅も全く苦にならない。だれにも話しかけられなければ、ずっとひとりでいる。ひとりっ子は、そういうことのプロフェッショナルだ。子どものころから、誰とも遊ばない日には(あまりなかったけれど)ひとりでテレビを見て、駄菓子を頬張りながら日がな一日マンガを読みふけった。それでも何も苦にならなかった。
 そのクセが、どうやらこの歳になっても抜けていないらしい。ここ一週間、何人もの方々から「偶然」同様の指摘を受けた。
ある七人が集まった席では集中砲火を浴びた。
「平野さんって、こちらから誘う一方でほとんど誘ってこないでしょう〜」
「誘われたことな〜い!」
「お高くとまっているんでしょう〜」
す、すみません、何のハラもありません。そもそも消極的な奴なんです。深い意味など全くありません。とにかくひとり遊びに慣れてしまっているだけなんです。待ちの奴なんです。お許しください。申し訳ございません。頑張ります。ぺこ、ぺこ。


◆夜は大人の集まりがあり、とても充実した時間を過ごす。Rさん、本当に素敵なセッティングをありがとうございました。集まった方々のパーソナリティもすばらしく、ちょっとお話ししただけでその深みのようなものが伝わってきました。う〜 これぞRさん・ベストセレクション。そうそう、こういうことを「取り合わせ」といいますね。ぜひ、また縁を起こしてください(縁起が良いということね)。あ、「待ち」ではいけませんね。「なんで自分から誘わないの〜」ということになってしまいますね(汗)(汗)(汗)

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