『崖の上のポニョ』の妖怪波は、果たして北斎を超えたか。
◆よーし、どこからでもかかって来いとミーティング3件。入れすぎである(懲りないけれど反省)。合間にジブリの映画『崖の上のポニョ』を観て、ストーカーを思い浮かべて恐怖に冷や汗をかく(まずは観てください)。宮崎駿総指揮の久方ぶりの作品だ。
冒頭で主人公の宗介が崖の上の自宅から階段をおりて海へ向かう場面は、「階段をおりる人間の身体行為」(マルセル・デュシャンを思い出す)という動きを、途中の草木をうまく利用しながら微妙な間をつくり出すことによって見事に描ききっている。この何気ない日常シーンは、ディズニーの手法とはまったく違って、まさに宮崎アニメの真骨頂といっていいだろう。
また海の中をいくデボン紀古代魚の群れは、現代の町並みと重ねられ摩訶不思議な世界を創りだしている。
もう一つ大切なことを云っておくと、この映画の「妖怪波」(平野勝手なネーミング)の表情はまさに圧巻ではある。ただし波や水の表情を描ききるのはあの宮崎駿でさえもかなり苦労したのかもしれない。やっぱりわたしが行司なら、葛飾北斎『海上の不二』の波が砕け散るその先から千鳥にメタモルフォーゼしていくような描きっぷりの方に軍配を挙げる。北斎の波は間違いなく妖怪そのものだ。怖い。不気味である。北斎の『諸国瀧巡り 和州吉野義経馬洗滝』の流れ落ちる水の表情と色には宮崎駿でも超えられない何かがある。挙げていけばキリがないが、例えば曾我蕭白『群仙図屏風』の波飛沫や歌川国芳の『玉とり』の「流れ」の表情もまた同様である。もちろんアニメーションとグラフィックの違いがあるということは百も承知の発言である。
それから、宮崎監督のすばらしいところはこの映画のタイトル『崖の・・・』にルビをふらなかったこと。きっと大人だって読めない人はいるだろう。「子どもだから読めないでしょう〜、フリガナつけて」という勝手な思い込みで書き手の原稿にルビを強要する一部マスコミ諸君、見習ったらどうだろう。もちろん露出回数やメディアのちがいはあるけれど。
◆先日この「脳内探訪」に、どこから来たの沢ガニさんの記事を書いた http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/524.html 。するとさっそくN科さんからこんな貴重な意見が届いた。
「それは鳥ですね。鳥が卵を持っている沢ガニをエサとして食べた。そうしてその鳥がこの池に飛んできて、卵が混じっている糞を落とし、そこから沢ガニが孵ったんでしょう」ということだ。
なるほど、すばらしい推察である。確かに、この小さい池の横にはモチノキが生えていて、そこに毎日鳥が飛んでくる。鳥の腸の構造なら、一部未消化のまま沢ガニの卵を糞として落とすことは十分に考えられる。「鳥媒花」というあの考え方と似ている。しかし、その沢ガニ最近見ないな〜。亀に食われたか?
バックナンバーはここ↓から。「表示件数」を「100件」に選択すると見やすくなります。