平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

教養主義ではない。ただ教養が大事なだけである。〜秋野不矩美術館 2008/07/14

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 昨日観た映画『靖国 YASUKUNI』が自分の中でまだうまく消化できないまま目覚めの悪い朝を迎える。5時半起床。シャワーを浴びて、いざ、掛川へ!
 講座開講予定より1時間15分も早めに着いてしまったので、カフェを探すが見あたらない。で、朝マック。ナゲットを頬張り講座で話すことをざっと予習する。よしよし。
 講座は予定通り、「チーム」「プレゼンテーション」そうして「教養」の三本立て。今回その組み立てでは、いちばん伝え得たいことを最後に持ってきた。すなわち「教養」の話である。
 その話のど真ん中は、「メソッド」と「スキル」の違い。
 方法であるmethodの語源はギリシア語の「〜のうしろに」の意味を持つ前置詞metaと、道を意味する名詞hodosの合成語methodos が、古代ギリシアの哲学者たちによって「学問の手続き」の意味となる。すなわちmethodとは先人達が既に歩んできた道を後から辿っていくこと。日本語で言えば「稽古」である。古を稽(かんが)えることだ。更に言えばそれは、後進のために道をひらくことでもある。
 一方、skillというのは、昨今では「(実社会で今すぐに)役立つ技術」をいう。これは即、答えの出る成果主義を支える技術を意味する。時代は間違いなく、このスキルの普及に躍起である。いや、流行なのだ。そのうちに誰も言わなくなる。
 教養とは、それだけで何かを生み出すものではない。ゲーテは『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』という本の中で「教養とは、それ自体が目的であって、他の目的はありえない」と喝破した。そういうものだ。
 古代ギリシアやローマでは、市民権を持つ人々の素養をラテン語で「フマニタスhumanitas」といった。すなわちこれがhumanitiyの語源。Humanitiyは「人間性」「人間(らしさ)」「人類」、の意味で、だからhumanitiesは人文科学(哲学、外国語、文学、歴史など)をいう。人間をもっとも人間らしく振る舞わせるものは「教養」をおいて他にはない。
 ここが解らないと、いつまで経ってもスキルアップだけを目指した成果主義だけが有り難がられ、人類は間違いなくふぬけとなる。  
     ________という話をさせていただく。実はこの話が、想像以上に良い反応だった。それは受講者のみなさまが優秀だったのだ。

そうそう、教養と物知り(雑学)をいっしょにしてはいけません。別物です。

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講座も無事終わり、その足で「秋野不矩美術館」へ(掛川市から自動車で約30分)。生誕100年記念の展覧会 後期が始まったからだ。
秋野不矩については今更わたしが語ることはない。ただ一つだけ書いておくなら、彼女はなんと52歳という年齢で、今までのタッチをすべて捨て、新しい秋野不矩へと生まれ変わったということだ。それはあまりにも劇的であった。
「へ〜、そうなんだ〜」で片づけられては困る。一時代を築いたひとりの才能が、52歳にして(いったいその時点で何歳まで生きられるかもわからないのに)今までの名声すべてをかなぐり捨て、新しい筆に持ちかえる度胸というものをよく考えてみて欲しい。それにはどれだけの勇気が必要か。
秋野不矩はあんなふうに見えて最後まで枠にはまることを嫌ったのだろう。それでなければ「不矩」などという名前をわざわざ背負い込むわけがない(たしか本名は平仮名で「ふく」)。
秋野不矩の作品は、好き嫌いで観ないで欲しい。そんな「ささいなこと」はいったん括弧に入れて、すべての人に好みを越えて対峙して欲しい作品群なのだ。

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藤森照信氏の美術館建築はまさに秋野不矩の作品のタッチと呼応する。ドアや柱などについているノミの痕は、不矩の作品、たとえば「ウダヤギリ」のコンテの盛り具合やスクラッチの仕方そのものである。

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ほんとうにきょうは、ちょっと頑張って美術館まで足をのばして良かった。


その足で約20人が集まるある怪しき会場へ(Tちゃん、ごくろうさま)。いよいよ、「ハイスクール○○」が動き出すかな(笑)



あれも読みたい、これも観たい!!!
締め切りが〜 (汗)


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