音は写真に写せるか 〜熊坂監督との対談後日談
先日、映画監督の熊坂さんと対談をした際、途中いくつも思いついたことがあった。That reminds me of a story.
だが時間の関係であまり話題の一カ所を掘り下げるわけにもいかず、途中何度も言葉を呑み込んだ。
例えば、映画『珈琲とミルク』を拝見したときに思ったのは、人間の感覚器官のユニークさという問題である。
『珈琲とミルク』のストーリーを極簡単に云うなら、耳の聞こえない12歳年上の女性(珈琲)に、写真という手法を使って自分の思いを届ける小学生(ミルク)の物語。言い換えるなら「音は写真に写せるか」「音は平面媒体で表現できるか」という問題である。
批評の世界では、特に20世紀は視覚偏重型の時代と云われている。テレビ、映画、書籍、新聞、インターネット・・・目から入ってくる情報が圧倒的だ。だが、例えば日常のこんなシーンを思い出してみて欲しい。
微妙な違いを持った二種類の紙を見極めるとき、われわれは指先に紙を挟んでその腹で擦るということをする。注意深く観察すると、そのときに大変興味深い行為がひとつ加わるのだ。それは、指の腹で紙を擦りながら、そこから「敢えて目線を逸らす(目をつむる)」という行動である。このことは「微妙な感覚は視覚に頼らない」ということを意味している。敢えて「視覚の力を遮断」し、指先に全神経を集中させるのだ。視覚能力は思った以上に低く、対象が小さくなればなるほど、その力はあてにならないのだ。最後の最後は「視覚は信頼できない感覚」なのかもしれない。
ところで視覚という感覚器官は、自ら瞼を閉じることで外界からの情報を遮断することが可能だ。それはわざわざ手という道具を使って目をふさぐ必要がないという意味だ。味覚も同様に、自らが口を閉じることで進入してくる味という感覚を遮断することができる。ところが、鼻や耳は自ら「閉じる」ことができない。鼻は手を能動的に使わないとふさぐことができないし、耳は手をあてないと音を遮断できない。これが何を意味するか、今一度きちんと考えたい。
もう一つおもしろいなあと思うのは、足の裏の話だ。足の裏の感覚器官(とくにメカノレセプター)には常に「予備電源」が入っている。普段、足の裏には予備電源だけが入った状態だが、例えば靴の中に小さな石ころ一つ入ったとたんにその電源は瞬時にスイッチオンになり、通電をはじめる。これが仮に足の裏の感覚器官が常に百パーセント稼働していたとするなら---------道がデコボコしている。靴がきつい。道が15度傾いた。そんな情報が常に入ってきたとするなら、人はわずかに歩行しただけで情報メモリーがすぐにいっぱいになってしまうだろう。
音という文字は、神に向かって誓いを立て、それに背いた場合には刺青の刑に処させるという象形である。いわゆる(神と人の)声なき声の交換だ。
音は波形にすることで誰もが共通したビュジュアル情報として捉えることができる。だがこの方法でわれわれは映像を楽しむことが基本的にできない。この波形と写真(映画)の間にこそ、熊坂監督が伝えたかった思いが横たわっているのだ。
この段階で面識はありませんが、ありがとうございます。
OHANA*@Kotoba …静岡鷹匠の雑貨&お花屋さん
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