情報は向こうからやってくるのか
◆このところ「学ぶための本」が膨大に書店に並んでいる。いったいなぜだろうと考えてみた。もちろん団塊の世代の影響もあるだろう。
わたしはもう一つ、多くの大学が周年記念事業の一環として、その知をひらいていくための出版活動を積極的に行っているからではないかとみている。このことが学びの場の解放と「学ぶための本」の出版に拍車をかけているのではないだろうか。
周年事業を二三挙げるなら、慶應義塾大学が150周年、早稲田大学が125周年(中途半端な周年事業のようだがちゃんとした理由がある)、東京大学が130周年 他にも国立大学の多くが周年事業を展開している(あるいは準備をしている)。
そうして、つくづく稽える。周年事業という「きっかけ」で何がいちばん大事になるのか。何を優先すべきか。
それは学ぶということへの根本的な問いかけではないだろうか。そうして学びの場を底上げするために、「研究」「組織運営」「学内環境整備」「国際活動」「財務」「地域連携」などをどう位置づけるかだろう。
この問題に対して、わたしも近々この場に一つながりの話をアップすることになるだろう。それも子供向けに。
◆先日ある催しに参加したら、五十代半ばと思われるご婦人が、担当者をつかまえて盛んに抗議を繰り返してしていた。
「わたしはたまさかこの催しを昨日友人に教えてもらって知った。テレビや新聞でPRしたのか。もっと積極的にPRすべきだ」
なるほど、この「正論」には一理ある。というのも、いくつもの催しを見ていると、中身をつくることに一生懸命で、広報・広告計画がまったく考えられていないということが多々あるからだ。大前提だが、世にひらいていく催しに対して、広報・広告計画が不要だとはおそらく誰も思っていないだろう。ところが大忙しで準備が進行していくと誰しも余裕がなくなる。主催者は「こんな良いものだからみんなが来るに決まっている」 「仲間のだれかがPRしてくれるだろう(仲間もやってくれないということはうすうすわかっているが、そう思わないとやっていられない)」 「なぜマスコミは取材に来ないんだ」 「自分には他にやらなければないことがある(だからもっと暇な奴がやるべきだ)」 「こんな良いことをやっているんだから来ない方が悪い」 「俺が誘って断るとは何事か。もう誘わない」といったマイナス思考が働いている。最初から「広報・広告のことはすっかり忘れていました〜」ということはまずない。みんなそこに気付いていていながら柔らかにフタをして、隣の仲間にそのお鉢をこそっと回している。もちろん全体予算からみた広報・広告にかけられる金額にも限度がある。そんなことはわたしにもわかっている。
話を戻す。そのうちこのご婦人は、自分が持ち出した抗議に更に興奮して(よくあるパターン)、最近自分が見落としたいくつもの催しを声高らかに披陳して、こんなにたくさんの催しをわたしは知らなかった! と舌を噛みそうな勢いで抗議を重ねた。そうしてあろうことか、自分が大変濃いにしているという市会議員や県会議員の実名を持ち出して、彼らにこの問題を「通報する」と言い出した(市会議員や県会議員はえらい迷惑だろう)。
確かにPRする側の問題もあるが、何かこの人の態度には解せないところがある。普段からご自身でどこまでアンテナを張っているのだろう。
情報取得というものはいつの間にか受け身になった。テレビやラジオのスイッチを入れればそこから自分の欲しい情報が自然と聞こえてくる。新聞を広げればわたしのための情報が箇条書きで掲載されている。ちょっとサイトにキーワードを放り込みさえすれば、わたし好みの行事がわたしにとって重要な順に表示される。そう思い込んでいるのが上記のような人だ。
それは同時に「わたしは○○さんも知っている。市会議員の△さんや県会議員の□さんも知っている」という「人脈力」が、「わたしが欲しい情報」の前ではいかに無力であるかということを明らかにする(事実、市会議員や県会議員を知っていても、このご婦人は自分の欲しい情報をいくつも逃しているではないか)。
それからくどいようだけれど、情報は向こうからやってこない。実は、いつでもそこにあるのだ。ただその時点で気付いていないだけなのである。情報は空気のような存在で、意識をした瞬間にそこにあることに気付かされる。要は、そこにあるものを情報と見るかどうかである。それをキャッチウェーブできるかどうかは受け取る側の問題だ。
さて、以前にもどこかに書いたけれど、理想は「この人の紹介してくれるものなら(よくわからないけれど)全部見てみる、行ってみる、読んでみる、参加してみる」 「この人の情報はおもしろいに決まっている」、そう思える人物を何人抱えることができるかが重要なのだ。そうして、(いささか古い言い回しで恐縮だが)自分自身が人から頼られる「文化目利き」になることが大事なのだ。肝に銘じたい。
◆昨日バスに乗ったら、携帯電話を使ってバス会社にクレームをつけているスーツ姿の紳士がいた。極々普通に見える六十五歳ぐらいの男性だ。彼は淡々と、しかし繰り返し「今乗っているバスがいつもより五分遅れて来た。いったいどうしてくれるんだ」と、ときには凄んでみせていた。なぜそこまで五分にこだわるのかわたしにはわからない。重要な契約に遅れそうなのか。それとも彼には、その先に生き死にの現場があるのだろうか。
◆移動、打合せ、原稿・・・そんな中で、イタリー亭主催の「キャンドルナイト」に顔を出す。蠟燭の灯りにほっとする。ジャガイモがうまい! それだけで十分だ。
蘇ったアヒル
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