平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

映画とは、あるシーンへと向かって映像を積み重ねていく行為だ



「心を亡くす」、そう書いて「忙しい」と読む。またそんなふうに叱咤されそうだが、事実忙しいのだから仕方がない(「心を亡くす」の語源説はいい加減だしね)。忙しい理由はそのボリュームにもあるのだが、当初立てたスケジュールがころころ変わってしまって、その管理に余分なエネルギーを取られているためだ。

きょうは立て続けに四つも打合せがあり、ランチも満足にとれない。けっきょく夜までに口にできたのはランチの代わりに口に運んだ一杯の珈琲だけであった(忙しいのはえらいわけではない。スケジュールのコントロールが苦手なだけだ)。で、午前中の二本目の会議が先方の都合で変更になり二時間半も空いたので、藤沢周平原作 映画『山桜』を観る(グッタイミ〜ン! なんて時間の使い方がうまいんだろうと自画自賛。他にほめてくれる人がいないから・・・)。

満開の桜の下、野江(田中麗奈)と再会した東山紀之演ずる武士・手塚弥一郎の振り向きざまの台詞「今は、お幸せでござろうな」が最高に良かったし、その伏し目がちに振り返りながら、ゆっくりと面を上げるさりげない演技がたまらなく良かった。あの演技は監督の演出なのだろうか。それとも東山自らの演技なのだろうか。
映画というのは「あるシーンへと向かって映像を積み重ねていく行為」のことで、一つの山はきっとこの振り向きシーンであったに違いない、わたしはそう見ている。
全編に渡って、ただただ寡黙な手塚弥一郎。それを離れた場所で祈ることで支える野江。
もちろんこの映画のキーになっているのは大きな山桜だ。それは野江から見れば手塚の存在だし、手塚から見れば野江の存在そのものなのである。
雪が溶けて春になって桜が満開となり、そうして季節は移りゆき、冬が来て、また雪が溶けて桜が満開になるそのシーンに重ねてある運命の決定が・・・。

あ〜、歳をとったら涙もろくなってきたな〜。そのあと自動車を運転しながら、いくつかのカットを思い浮かべながら目頭が熱くなった。うっ・・涙が・・・。

という余韻を残しながらも、なんといつの間にか日をまたいでしまった。まだきょうアップしなければならない仕事が残っているので、これにて失礼。

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