「余剰」を持つということ 〜『いのちの食べ方』
遅ればせながら、映画『いのちの食べ方』を観る。
音楽も流れず、ただ機械音と家畜の悲鳴と、そこへ人々の声にならない声が時折挟み込まれる。正直に言うと、そこに映し出された現場の数々は想像の域を一歩も出ていなかった。
といっても、それは映像として裏切られたという意味ではない。「思っていた通りをきちんと見せられた」のだ。
人間はまず貨幣をつくりだした。貨幣をつくりだしたからこそ余剰を持つようになった(文化人類学的に逆は正ではない。すなわち、余剰ができたからこそお金を発明して経済が発展したのではない)。すると今度はその余剰に拍車がかかる。するとどうなるか。人間はその余剰に対して生活サイクルを合わせていくようになる。次にその余剰が達成されそうになると、さらに先回りして余剰のハードルを高くする。するとまた、その余剰レベルに生活を合わせて・・・それが『いのちの食べ方』に「みごと」に描かれているのだ。この映画は、ただそういった事実をきちんと見せているだけのことである。
途中挟み込まれる食肉工場で働く女性の食事シーンでは、口元にパンを一生懸命に運んでいるところを長々と見せている。映像的に言ったらこの長さはひじょうに冗長的だ。だが、このロングシーンこそ、実はこの映画の肝なのだ。原題の「OUR DAILY BREAD」からもそれは容易に想像できる。わたしには屠殺される牛のカットよりも、この食事シーンが印象カットとして残っている。
それからこういった映像は「みんなハッピーにね」という「主体も客体もない言葉」に容赦なく詰め寄る。「その言葉って、いったい誰がだれに向かっていっているんですか?」と。