平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

やっとのことで手に入れた漢和辞典

HOLON

◆相変わらず『現代思想』の装幀は意味のカタチ化に成功している。テーマになる対象をたったの一枚で表して欲しいというオーダーなのだから、それはかなり骨の折れる仕事であろう。HOLONというブックデザイナーの仕事にはいつも脱帽する。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/348.html

      KANWA1

◆今まで手元になくて大変不便をしていた『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店 全13巻)をやっと手に入れた。しばらく絶食か(笑) 仕事で元をとってやる〜!!!

SEKIGUN

◆小学生のころの遊びは、決まってかくれんぼであった。しばらくさがし回っても、かくれた仲間が見つからないと、鬼はこう叫んだ。
「君たちは完全に包囲されている〜。今すぐ武器を捨てて出てきなさ〜い」  「わたしたちは君たちに何もしない。安心しなさーい」
これらセリフは誰が言い出したのか、いつ始まったのか、小学校に入学したばかりの子供達は、そんなことは誰も気にとめなかった。
「なにを今更」ではあるが、これがあの「浅間山荘事件」での、警察側が連合赤軍に向かって発した説得話法だったのだ。
きょう、遅まきながら映画『実録 連合赤軍 あさま荘事件への道程』を観た。
1972年(昭和47年)2月19日 1500人の機動隊と10日間220時間を戦った連合赤軍を描ききった若松孝二監督の渾身の作である。
彼らの行動に、ある者は革命の序幕を見た。しかし偶像は日ならずして地に堕ちた。なぜなら浅間山荘の銃撃戦は革命の序幕などではなく、自己崩壊のあげくの幕引きだったからだ。それは「総括」というの名目のリアルな死であった。
「粛清」、それは革命につきまとう言葉である。人はある思想のもとに行動をはじめると、いつの間にか「仮想の敵」を想定する。時代は変わり、事態は変化しても、人はその仮想の敵へと向かって拳を振り上げ続ける。なぜか。それは、「自己の消失」に対する恐れである。走り出した革命や思想というのは常に相手を必要とする。相手の不在はイコール自己の不在である。そう、革命のもっとも恐れることは強固な相手などではない。相手の消失によって生ずる自己の消失なのだ。この映画はそういったことを教えてくれる。

NARU

◆C.S.ルイス原作の映画『ナルニア国物語』を観る。『ライオンと魔女』、わたしの本棚には、ナルニア・シリーズ中でもいちばんボロボロになって並んでいる。だがそれはみすぼらしいわけではない。シリーズ中でいちばんかわいがってあげた本という意味だ(『馬と少年』行方不明)。
やっぱりこの映画もキリスト教のことが解らないと、映像や台詞の中に埋め込まれたアイコンのほとんどすべてが解らないだろう。有名な俳優が出ているわけではないが、一気にみせてくれた。他の映画以上に観る者のイマジネーションを問われるのかもしれない。次作が間もなく始まろうとしている。さて、いつ行こうかな。(手帳を見る・・・)あらら、なかなか時間がないぞ・・・汗。

◆知り合いのディレクターが創った番組を見る。歌手「ダ・カーポ」が各地を巡り静岡の建築(建造物)とその空間が抱える物語を、そこに音楽をかぶせることで「もうひとつに表情」として浮かび上がらせようという試みである。そうか、あの空間で演奏会をしたらこんな響きなんだ〜とおもって興味深く拝見した。明治のトンネルでも演奏して欲しかったな〜(笑)
というのも、以前、あるサイエンス・スクールで各地域のトンネル内に自分がいることを想定して、そこで聞こえる音を参加者に再現して聴かせた。それが実に興味深かったのだ。トンネルは音の新たなる表情をつくる空間である。

HIRANO

おいおいおい、何買ったんだ?

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