カントな朝 フォークな夕べ
朝起き抜けは「カント」な気分であった。そう、その通り、イマヌエル・カント、 プロシアの哲学者その人である。彼の表した『純粋理性批判』『判断力批判』の名前ならご存じの方もいらっしゃるかもしれない。エピソードがとても多い人物なので、それらを一つでも挙げれば、あ〜、あの人ね、とおっしゃる方もいるだろう。例えば彼の規則正しい生活、それはもはや神格されたエピソードになっている。
毎朝決まって同じ時刻 4時55分に起床、雨の日も、風の日も、彼はいつもの村の道をなぞるように散歩した。その仕方があまりにも正確なため、村人達は散歩するカントを見て、時計の針を修正したという。
散歩は古来より哲人の「思索の手段」であった。ソクラテスもプラトンもニーチェも西田幾多郎も歩きながら稽え、自問自答し、そうして対話を繰り返した。
そう、今朝はそんなカントな気分で、彼がなんと71歳のときに世に問うた『永遠平和のために』を歩きながら読み始めた。だがすぐにミーティングの場所に着いてしまい、そのあと打合せが四つも続いたので、そのカントも日がな一日鞄の隅に追いやられたままであった。
ところで、その四つ目のミーティングに同席されたNATSUMEさんからお借りした『フォークソング されどわれらの日々』(週刊文春編)という本をパラパラパラと読み出したら、それが何とおもしろいのなんのって、止められない止まらない、でカントから急ハンドルを切ることとなり、わたしの読書ドライブにはターボがかかり、そのまま日本のフォークソングの道に入り込んだ。
これがまた泣けてくる内容で、乗り込んだバスに揺られながら読み、バスを(いつの間にか)降りて、外灯の微かな灯りを頼りにしながら活字を追い、玄関戸をくぐって、途中買い込んだチーズを口に放り込みながら一気に読破した。
この本は、フォークソング黄金期を創った歌手たちのインタビューもので、彼らが当時を振り返っての独白形式で構成されている。だからといって週刊誌ネタのようないやらしさがなく、思い出話に終始することなく、お涙頂戴にもなっていない。そのさじ加減が絶妙なのである。特に山崎ハコの独白は、いかに「わたしが〈創られた存在〉」であったかが淡々と語られ、その運びが余計に説得力を持って、行を追うごとに目頭が熱くなった。
また、なぎら健壱は、「フォークを〈懐かしい〉という人がいるが、ワタシたちは決して懐かしい存在じゃない」と吐露する。そうだ、フォークソングを歌う者にとって、常にフォークとわたしは「今のわたし、今歌っている歌」なのである。
本書では、南こうせつ、NSP、ビリー・バンバン、小室等、カルメン・マキ、シモンズなどの時代をつくったフォークシンガーたちの名前と「今の声と歌声」が列ぶ。
そんなワケで、カントからフォークソングに走り抜けた一日であった。