理念の問題である
「理念」の問題である。
日本人がいちばん苦手なことでもある。理念の問題を持ち出すとすぐに情緒的だとか、なんだー かんだーといって叩かれ、スミに追いやられる。本居宣長以来の常套手段だ。道徳の話ではない。日本の思想が世界に通用しない理由は、箸の国だからでもなく、品格がないからでもなく(大問題だけれども)、愛国心の問題でもなく、島国だからでもなく、ファーイーストだからでもなく、言語が開かれていないからでもない。それは批評に「理念」がないからである。
たとえば、ヒトラーがソ連に侵入した理由を「簡単です。ひとことでいえば、それは石油の問題ですよ」とまるでマジックでもみせられるように切り出してこられると、ついつい解ったような気分になる。「湾岸戦争?エネルギー問題ですね」と自明の事実のように差し出されると、なるほど〜、そんなにシンプルな話だったんですね、とひどく感心する。しかし、少なくともあらゆる戦争というのは理念の上に成り立っている。理念のない戦争は戦争と呼べない。互いに互いの理念がベースにあって戦いは行われる。良い悪いの話ではない。わたしは戦争など肯定していない。
ただひとこと書いておきたいのは、理念のない場に「批評は存在できない」ということだ。そんなことは当たり前のことである。何かを発見したかのように云うことじたいナンセンスだが、これは自分のために書いておきたいのだ。
立て続けに読んだ『戦争解禁』『正しい戦争』の藤原帰一はそんな云い方はしていないけれども、これらの読書を通して、そうして最近柄谷行人の話も聞いて、そんな思いに至っている。