平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

石蹴りと神事

AKARI1


以前、ある事務所にお邪魔していたら、だれも見ていないテレビからリズムの良い声が流れてきた。
「支笏湖(シコツコ) 支笏湖 支笏湖」 「支笏湖 支笏湖 支笏湖 支笏湖」 
どうやら出演者は何かのゲームに興じているようだ。しばらく注意を払っていると、番組のルールが少し見えてきた。最初の人が「支笏湖」というと、隣にいる人はそれを受けて「支笏湖 支笏湖」と繰り返す。さらに隣の人はもう一つ重ねて、「支笏湖 支笏湖 支笏湖」とこれを繰り返していき、言い間違えたり、噛んだりしたものが負けになるといういたって簡単なルールである。
ところで、これを遠くで聞いていたビデオのオペレーターが 「支笏湖じゃーまだ発音しやすいよ~。もっと言いにくいワードを選ばなくっちゃ~」と叫んだ。さらにそれを聞いていたCMナレーターが 「隣の人にバトンを渡していくんじゃなくて、ランダムに指していった方がもっとスリルあるのにね」といった。遊びのルールは瞬時に変わって、それがまた伝播していく。我々は常にルールを遵守するホモ・ルーデンスであり同時にスポイルスポート(遊び破り)なのである。

私が子供のころ、鬼ごっこやかくれんぼと同じぐらいよくやったのが石蹴りだ。その石蹴りは確かヨーロッパで生まれ、「天国と地獄」あるいは「楽園」などと呼ばれていることを以前何かの書物で読んだ。これは地獄から煉獄に至り天国へと通過していく一種の宗教儀式であり、魂の遍歴なのだ。
私の住む静岡では、石を蹴りながら、地面の図形をなぞるようにして前へ前へと進んでいく。その静岡ルールでは、必ず不安定な片足の状態になってピョンピョンと前に進んでいくのだ。これを“チンコロ”といった。
以前テレビでジャワ島の子供達の遊びを見ていたら、やはり地面に描いた図形の上を不安定な片足でピョンピョン跳びはねていたし、アメリカやシベリアの子供達もそんな遊びをしていた。なぜわざわざ片足という不安定な状態になるのか? しかもそれはなぜ言語の違う世界に共通するのか。ゲーム性が増すからか? 私はそれを某かの神事と関係があるのではないかと見ている。自らを不安定な状態におき、神を身体に憑依させる一種のシャーマニズムの術なのである。もしかすると、それは自らが片足が欠けている神に近づくためにおこなう儀式なのかもしれない。
遊びの原型は、人と神とが関わる儀式であることは間違いない。

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