平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

リルケと係わる級数

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ふーっ
やっと片付いた・・・・引き出しの中だけ。



階段の上り下りと、トイレ&バス(乗り物の方ね)の中でリルケを読む。古い新潮文庫なので級数が小さい。ここでは級数が小さいから いかん! ということを問題にしたいのではない。級数だけで本との関わり方が激変するということを述べておきたいのである(ここでは書体の問題にはふれない)。
具体的に言えば読む速度、すなわち理解する速度の問題である。当然ながら文字が小さくなれば読む速度は遅くなる(少なくとも私の場合には)。
仕事で古い新聞を取り出すことが度々あるが、やはり戦前戦中のものは印刷や紙が粗悪なこともあって、今の新聞の級数に慣れ親しんでいると読みづらい。
このところ新聞の写植(今は写植なんて言わないよね)の大きさが変わってきた。文字を大きくしながら、レイアウトを工夫することによって文字数を逆に増やそうというのだ。いわゆる級数をアップすることによって本来なら情報量が減るところをデザインの力でカバーしようという試みだ。それを単純にユニバーサルデザインと呼んで欲しくはないのだが、慣れてしまえばそれはそれでなかなか読みやすい。
さて件のリルケだが、級数が小さいとどうしても低速読書になる。これがまたリルケには良いのである。ということは「リルケ(という人物)を理解する級数」というのが確かにあるということなのだ。これ以上大きすぎてもいけない、これ以下でもダメ、そういった級数である。実際に新版と読み比べてこの知見は私の中で確固たる真実に近づいた。級数が大きいと文字が流れすぎてしまう。思考が逆流してしまう。あの川の両岸をセメントでかためた護岸工事的思考に陥るのだ。
ならば「リチャード・ドーキンスと係わる級数」「森村泰昌と戯れる級数」「マルキ・ド・サドと心中する級数」「ジャン・ジュネに引きづり回される級数」「ドストエフスキーを遠巻きに眺める級数」「夢野久作に攪乱される級数」「ナボコフに連れ去れてしまう級数」といったものがあって然るべきだ。
文字の大きさによって本と係わる速度をコントロールするということをロシア帰りのリルケに教わった。

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