平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

何事にも柔軟に対応する意志の軽さ + 有度サロン


 ◆よし、GWは徹底的に部屋の片づけをしよう、そう誓っていたはずなのに、なんだか既におっくうである。そんな時間があるなら少しでも多くの本を読み、映画の一本でも観たい。この「何事にも柔軟に対応する意志の軽さ」が私の信条であり、売りのひとつでもある(人はそれを「存在の耐えられない軽さ」だと呼ぶ)。まだGWも始まったばかりなので、今後の自分に期待したい。
 どうも手帳に目をやると、ここ二日の間に原稿を二本アップしておかないと、来週はにっちもさっちもいかなくなることが判明(きょうは今から東京へと向かわないといけないのだが・・・汗)。私は書きだしたら早いしボリュームに対してもへこたれない不屈の精神を持っている。原稿はモスバーガーでも新幹線のなかでも、トイレのなかでも階段の踊り場でもどこでも書くことができる。事実、ここにアップしている脳内探訪もそういう場所で書くことが多い(ケータイで打ってPCへメールしておくこともある)。が、とりあえず目の前の難行苦行には目を背ける癖がある。そもそもこんな言い訳日記を書いている暇があるなら、原稿に向かえばいいだろうと百人中百人がまずそう思うだろう。その通りだ。だから先に申し上げたはずだ。「何事にも柔軟に対応する意志の軽さ」が信条であり、売りのひとつだと。

hagiwara

◆前回の有度サロン(東大哲学・坂部恵 × 早稲田仏文・守中高明)は私が偶然このところ書いたボードレールと朔太郎にシンクロした。
 朔太郎は『青猫』とか『竹』とか『月に吠える』とかその程度しか中学や高校では教えてくれない。もちろん文庫に納まっている作品もその程度で、それでは朔太郎の全貌を俯瞰したことにはならない。
 写真は私が持っている少々古い朔太郎の全集だが、この量を見たらびっくりする人もいるだろう。二三冊の文庫に納まる程度の詩人だと思っているひともたぶん多いだろう。
 そもそも朔太郎という人は、口語自由詩の創出に果敢に挑戦した詩人である。時代というせいもあるが、彼ほど日本語の破壊と創造に全人生をかけた者はいない(二葉亭四迷だっているでしょう〜というかもしれないが朔太郎の比ではない)。

 サロン対談者の守中高明によればこうだ。
 朔太郎は過去の日本語を「非人間的」として位置づけ、日本語の「幼稚な詠嘆調」を「一層複雑なリズム本位」にまで向上させることを企んだ。その中で従来の日本語を破壊しながら、自由詩の成立を目指すものの、その行為のなかで常に「不安」という陰を抱え込む。それは時代の精神として「散文化」と、詩の根拠としてのリズの同時成立可能性への不安というものであった。このアンチノミー(二つ以上のものがすべて真なのにその間では矛盾が発生するの意味)と闘い続けながら、そうして新日本語詩の創立・新日本文化の創造へと向かうのであるが、そんな彼を待ちかまえていたのは空虚な美学的なイデオロギーであった。
 そうしてけっきょくのところ彼のなかで「日本回帰」がおこる。朔太郎の言葉でいえば「新しい日本語を発見しようとして、絶望的に悶え苦しんだあげくの果て、遂に古き日本語の文章に帰ってしまった」(『氷島』)ということだ。すなわちこれが「漢文訓読体における文法上の破壊・誤用の意図的な反復(例えば作品『乃木坂倶楽部』)」ということである。
 守中は、今こそジャック・ラカンのいう三界(想像界、象徴界、現実界)の象徴界(イマジナリー)を核心に据えながら領域の活性化を無力化すること、それこそがグローバリゼーションにおけるモデルニテの課題であると結んだ。

 ちょっと残念だったのは、最後が時間切れで一番大事な部分が掘り下げられなかったことだ。テーマの核心部分をもっと丁寧に時間を掛けてやり取りして欲しかった。それから坂部氏は二回分の対談をどのような形であれ、総括する必要があったのではないだろうか。

rakan


それよりも、今回いちばん惹きつけられたのは守中高明(早稲田仏文教授・思想、詩人)という人物そのものだ。テーブルの上のプリントを取る指は、中指と薬指(やってみてくださいよ)だし、とにかく動きがすこぶるスローであり、顔や体を動かさず目だけを動かすという彼全体を包み込む不思議な挙動体系である。彼は役者もやっているのだろうかと真剣に考えている。ならばそれはそれで観てみたい。私のなかではかなり気になる人物になった。

現在地:トップページ脳内探訪(ダイアリー)

サイトマップ