平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

まったくもー どーしますか〜  エイジレス

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M田社長も真っ青!!

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 写真とタイトルから柔らかなメッセージだと思った方、お許しください。硬軟取り混ぜてお送りするのが、平野流。ここはひとつ硬派にいってみたいとおもいます。

 さて、世の中に100パーセント確実なことがあるとすれば、それは人が死ぬことである。この事実に関しては疑う余地はない。総理大臣も、一日に1億円遣えるIT会社の社長も、生命の研究者ですら確実に死を迎える。そうして人が死ぬということは基本的に歳を重ねるということだ。そこに抗って、整形したり、石油製品を塗りたくってみたりすることが、人間の欲望という名の生命維持活動ときっとどこかで直結しているのではないか、私はそう見ている。それを平和ボケがもたらしたある種の流行現象だと切って捨てる批評家もいるが、果たして本当にそれだけが原因だろうか。
 というのも、どこに掲載されていたか忘れてしまったが(「ナショナルジオグラフィック」??)、戦時下のイラクで、子どもを三人も抱えたお母さんの「ある写真」を見たときに私は衝撃を受けたからだ。
 周辺では兵士や巻き添えを食った民間人が凶弾に倒れ、食べるものもままならず、目の前を飛び回るハエを追い払い、そんな極貧の状況下でその母親は何をしていたか・・・なんとお化粧をしていたのだ。きっと辺で拾った粗末な化粧品か、さもなくば植物染料で自らこしらえた白粉の類だろう。埃で汚れ、ヒビの入った鏡を覗きながらそのお母さんは夢中で化粧をしていたのだ。この一枚の写真を見たときに、化粧とはまさに人間の本能的行為だなあとわたしはつくづく思ったのである(宗教的儀礼か?いや、そんな化粧ではなかった)。
 そういえば、老人介護施設でおばあちゃんたちにお化粧をしてあげると、とても生き生きとして、痴呆の症状も軽くなったという事例は枚挙にいとまがない。まさにこの事例も化粧が生命そのものを何某かで支えていることを物語る臨床である。
 ところでモノを手に入れるという消費活動は、手に入れた段階でその目的がほぼ100パーセント達成されている。だから通販で買ったダンベルは放り出される運命にあるし、(ナイショにしているとは思うけれど)何十万円もする英会話の教材を三セットも持っているという人もいるし、本は読まずに日々たまっていくし、軍隊式ダイエットとやらについては、ついこの間まで老若男女こぞって欣喜雀躍していたかと思えば、もうそんなことを口にする者すらいない。良くも悪くもそれが消費活動の大原則である。そうして我々は次に流行るモノをどん欲に「待ちかまえていて」再び消費活動に突っ走るのである。きっと人間にインプットされたこの活動こそが、世の経済景気をほぼ安定的に維持している大きな要因なのだ。
 ときどき、そういう消費行動を責め立てる人がいるけれど、これは人間が現在の構造的消費世界に身を置いている以上、至極まっとうな行動だとも言える。だからこそ根本解決が必要じゃないかという意見もある。それを私は否定しない。別に私も手放しで良いことだとは思っていないからだ。だが、これらに対する解決策は、歴史のなかで悉く失敗してきている。なぜなら人が生まれながらに持っている消費するという行動を越えて、「それなら私は消費しない」という万人に納得する政策が出ないからだ(そんなものはありゃしない)。もっとダイレクトにいえば、ものが売れなくなっては消費が低迷するから、国がそこに本腰を入れないだけの話だ。「消費行動における弊害」については国家レベルでモラルハザードが低いと言わざるを得ない。
 若さという放っておいても消費されるモノに対して、人は追いかけてでも手に入れようとする(取り戻そうとする)。火の鳥の生き血は、現代文明のなかではまだ確実には約束されていないからだ。いや、きっと確実な不老不死の妙薬が登場したとしても、英会話の教材が売り文句を変えて何度も構造的消費活動のなかに入る込むように「今度こそ!」と我々は消費に走るのだ。手に入れても手に入れても、もっともっとと手を伸ばすことになるだろう。そうしてそこでは惜しげもなく労力とお金を浪費し続け、貴重な生(せい)の時間をも消費して行くのである。消費社会とはそういうものである。

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