笑い
「笑い」。 その本質を一種の社会的制裁だと喝破したのはベルクソン(岩波文庫で『笑い』が読める)で、ホッブズは不意の優越感の知覚と説明している。またニーチェは良心の苛責に他人の不幸を喜ぶことだと言葉のナイフを向けてみせた。微笑みと身体から笑いの本質を見つけだそうとしたプレスナーもいた。そういえばバフチンも“開放の笑い”ということを云っているし、柳田国男にも『笑いの本願』があり、フロイトもフリューゲルも大室キョジン幹雄先生も山口ラビリンス昌男大先生も笑いについて言及した。
私の住んでいる小さな農村周辺にはその昔、笑い祭りともいった一種の長寿の祝いがあった。いわゆる「雀踊り」である(最近はこの祭は完全に消滅した)。わたしは中学生のときに授業の一環で村長さんにインタビューしたことがあった。長生きしたけりゃ笑いなさいよ、兄ちゃん。この一言でもう喋ってもしょうがないから、とにかく一緒に踊ってみろと云われた。
なんとこの雀踊り(いわゆる欣喜雀躍ね)は延々と4時間も5時間も続くのである。坐って、跪いて笑いながら体を揺らす年寄りもいる。なかには倒れて痙攣するじっさま、ばっさまも出る始末だ。で、このとき私も二時間ぐらい踊らされて解ったのであるが、この雀踊りは陶酔して神を憑依させ永遠の命を獲得するための儀式なのだ。だから倒れることをわかっていながらお年寄りは踊り続けるのだ。なんと痙攣しながらもその顔が笑っているというのがちょっと怖いのだが、これこそ永遠の命を持った神の顔なのであろう。
え、笑わなきゃやっていられないから笑うんじゃないよ。