東京大学出版会の仕事 矢吹有鼓さん、羽鳥和芳さん&吉田理佳さん 2008/04/18
東京大学出版会の矢吹有鼓さんと校正のお仕事をされている吉田理佳さんと三人で根津の「かき慎」(もと貝屋さん。絶品中の絶品) でアサリのかき揚げ丼をいただきながら、矢吹さんがこのほど編集担当された『鳥のビオソフィア』と『百石譜』の二冊について盛り上がる。
この二冊は東大130th記念として上梓された。鳥の方は展覧会『鳥のビオソフィア 山階コレクションへの誘い』と呼応する出版物である。アートディレクションは原研哉、写真を上田義彦が担当している。そう、無印良品チームの仕事である。そうしてその手綱をとったのが編集者矢吹さんとその上司である羽鳥さんである。
矢吹さんと羽鳥さんというチームはため息が出るようなすばらしい仕事を数多く手がけている。ほんとうにすごいお二人である。理佳さんがそれを外部スタッフとして支えている。
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/88.html
RIKAさんにつていはここ ↓
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/163.html
今回の二冊(片方は鳥類標本でもう一冊は石器の標本)の仕事でまず驚くのは、そこに鎮座する物の背景に敷かれている「黒」の深さである。
結論から先に言うと、それは並大抵の能力では出せない黒である。アートディレクション、写真の力、照明の力、印刷の力、そのどれが欠けてもこの秀逸な仕事は結実しなかった。大袈裟な話ではない。
そこには膨大な時間とコスト、研ぎ澄まされた感覚、そうして持続する緊張感が必要になる。そういう現場に立ち会ったものなら「畏れて手を出さない領域」なのだ。もしも手元に背景を黒で撮った写真(集)をお持ちの方は、よーく目をこらして見て欲しい。それは「黒の背景で撮ったもの」ではなく、「黒く背景を潰したもの」であることがわかってもらえるだろう。最近発売されて骨格標本写真集などもその類だ。
そんなことはたいした問題ではない。素人は物が見たいだけだ。背景など関係ないとあなたは仰るかも知れない。ではなぜここまでこだわるかについて、矢吹さんや羽鳥さん、あるいは制作チームの代わり答えておこう(半分ぐらい当たっていたら許してください)。
ひと言でいえば「その方が対象物が抱えている世界をごまかせない」からだ。よく考えてみて欲しい。背景をあとから黒く塗り潰すと言う行為は、背景と物の間に立ち入り、その間にある輪郭をいわば強引に分け、切り取り、塗り潰すことである。それは関係の遮断行為である。
物というのは「確固たる輪郭線」を持っていない。輪郭線ははなはだ曖昧なもので、それをダヴィンチは空気遠近法で表現して見せたし、横山大観は朦朧体を駆使して差し出して見せたし、デュシャンは階段を下りる人で明らかにした。背景と物というのは実は互いにグラデーションで関係を保ってそこにあるのだ。背景は物に影響を与え、物は背景に影響を与えながら存在する。今目の前にあるすべての物は、単独の物として絶対に取り出せないという「事実」を抱えている(ウソだと思うなら今、目の前にあるボールペンを、蛍光灯やあなたの手の温度や目に見えなくても周りにある空気やそれが置かれているテーブルやボディに付着する微生物など他の何ものに影響を及ぼされないような形で取り出して見て欲しい。どう、できました?)。そこを無理矢理切り取ることは本来的には不自然だ。いや、不可能なのである。それを理解しながら、そこを越えて行くには、時間とコストをかけて黒のグラデーションに挑むしか方法はないのである。
さて、そこを理解しながらこの二冊をよく観察すると、『鳥のビオソフィア』と『百石譜』も、その境界線は限りなく曖昧でグラデーションであるということにあなたはきっと驚くであろう。細部に目線と心を宿すことで「黒の淵に堕ちていく」「黒の淵から物が湧き出してくる」という感覚が味わえるのだ。こういった写真集は、物そのものの「中心」を見るということも大切だが、際(きわ)にこそもう一つに本質が潜んでいるのだという重要なことを教えてくれる。
ところでわたしはここまで散々「黒」という言葉を使ってこの文章を綴ってきた。しかしあえて最後の最後でこれを修正したい。この世界を支えているのは「黒」ではなく、間違いなく「玄」である。その言葉の方が本質を的確に捉えることが可能になる。
「玄」は、人や幽の文字を伴って「玄人」「幽玄」などという言葉として使われる。語形は象形で、糸束をねじった形。白糸の束をねじって染め汁につけて引き上げたときの象形である。また糸巻きに黒い糸をぐるぐる巻いていって、その黒がどんどん深みを増していくといったときの様という解釈もある。いずれにしてもそれが原研哉と上田義彦のつくりだした「玄」なのである。「玄」は限りなく闇とグラデーションして、物との関係を保ちながら一体で世界を構造的に創り上げる。この二冊のすごさはここにある。
また、杉浦康平との対談でも原が告げるように、原は本来「白」の人である。彼が手がけたブックデザインや商品をみるとそれが一目瞭然である(ちなみに杉浦康平は黄色)。その原が「玄」に挑んだことも「デザイン史」の中のエポックとして後々語らえることとなるだろう(語られないとまず)。
またこれらの二冊は特別なアクリルケースに収められている。アクリルケースの厚みがたまらない。それは鳥や石が収められる採集箱の見立てである。きっとビブリオマニアならずとも驚愕されること間違いない。
さてさて、そんな話をアサリのかき揚げを頂きながらやり取りして、一行は東大にへと向かった。矢吹さんはあふれる仕事に引き戻され(さんきゅう さんきゅう)、理佳さんは平野に拉致されながら三四郎池と安田講堂を通過して『鳥のビオソフィア 山階コレクションへの誘い』を観て二人して感嘆し、霧雨の降る中バスに乗って浅草のカレー屋を襲撃し、神保町に戻ってスペシャルドーナッツを喰らって、静岡へと戻ったのであった。OH! スペシャルな充電タイム。
↑ ずっと居たくなるような空間 三四郎池
↑ 安藤忠雄建築設計 東京大学福武ホール
バックナンバーはここ↓から。「表示件数」を「100件」に選択すると見やすくなります。