アラーキーの「編集しない編集」 2008/04/09
「アラキネマ」「私写真」「大股開き」などの言葉を次々に産みだしてきた写真家アラーキーこと荒木経惟の編集的視点について少しだけ書いておこう。
みんな写真集をつくるときって、見栄えを優先して、撮った写真をあれやこれや並べ替えるでしょ。あれ、わたし、しないのよ。撮った順番にただ前から並べていくだけ。それじゃないと、時間軸の中でわたしと女の関係が変わっちゃうでしょ。
さらりと読み飛ばしてしまいそうな小さな言葉だが、ここにはとても重要な視点がある。
編集を生業とするほとんどすべての人間は、無自覚に、写真をただの素材として組み替え、入れ替える。最初に撮った写真と、500枚も600枚もシャッターを切ったあとでは、そこに流れるカメラマンとモデルの「関係」は間違いなく変化している。だがそれを編集者やデザイナーは「見栄え」だけでシャッフルする。そうして時間に添って流れる関係などまるっきり無視してレイアウトする。
そもそも人は写真の抱える「時間」を無視できる生き物である。あるいは、そういった行為にも不自然さを感じない生き物である。コマーシャルや映画というメディアの表現を見れば一目瞭然だ。
だが本来であればカメラマンとモデルの関係は、時間の中で刻々と変化していくものだ。そこを無自覚に並べ替えたときに、果たしてそこには何が起きているのだろう。
写真とは表情と状況を掛け合わせた言語であって、その言語活動にはかならず時間軸が絡む。写真という方法を伴ったダイアローグというものはそういった行為である。
その唯一とも言える写真言語活動に対して、たとえ当事者のカメラマンや編集者であったとしてもズカズカと立ち入り、勝手に並べ替えることは許されないはずだ。そんなことをしようものなら、ちぐはぐな表情、精神の分裂、関係の崩壊、文脈の断絶という現象が起きる。ただ幸いにもそれらの微細な矛盾に我々の鈍感な精神が気付かないだけのことである。
以前あるイベントでアラーキー氏から頂いたサイン。
取り巻きがアラーキーを写真におさめている際、わたしは手持ちのカメラを彼に渡して「撮ってください」とお願いしたところ、「脱げ!!」といわれながらシャッターを切って頂いた一枚(部分)。
この場にアップした内容は、その後ペンを入れる場合があります。
バックナンバーはここ↓から。「表示件数」を100件に選択すると見やすくなります。