少しをじっくり観るということ 〜美術館と展示
体力が衰えてきたせいか、近年各地で行われる展覧会の展示点数の多さにヘトヘトである。
テーマにもよるが、展示品は二十点もあれば十分で、少ない展示品をたっぷりと時間をかけて鑑賞したい。数が多いとどうしても気持ちが散漫になる。先を急ぐ。眼が泳ぐ。今観ている横の作品が気になってくる。
一度にたくさんの作品を展示する理由は容易に想像がつく。
観る側でいえば、十点、二十点の作品に1万人が大挙して押し寄せたら鑑賞どころか見ることすら困難であろう。数珠つなぎになって、さて自分の前に作品が来たら、人の波に押されて鑑賞どころではないだろう(初期のパンダを思い出せばいい)。
一方、美術館、博物館側にたって考えるなら、「あらかじめ用意されている空間サイズ」という問題がある。良くも悪くもまず「先」に展示空間という条件がある。キュレーターは、空間のサイズに合わせて展示点数を計画しなければならない。展覧会ではその空間を「埋める」ことが前提になるからだ。
もう一つの理由は、展示品が少ないとお客さんから「物足りない」というクレームが来ることにも影響する。「え〜 1800円でたったのこれだけですか〜?」 実は博物館や美術館という「組織」は客のこの類の声に意外なほど敏感である。キュレーターのわがままを押し切ってしまえばいいのにと思えることも多い。
敢えてもう一つ挙げるなら、今や展覧会のドル箱となっている図録の問題が挙げられる。十数点だけの図録はなかなか図録として成立しにくい。それでも制作するということになれば当然単価が安くなる。したがって商いになりにくいという問題を抱える。
もちろん美術品というのは数を観ることでしか見えてこない世界がある。十点、二十点だけでは作家や作品の型や傾向、時代などがなかなか見えてこないし、キュレーターが提案したい世界観が描きにくいだろう。数を観ることで閲覧者のエンジンにターボがかかるということもあるだろう。
なかなか難しい問題を抱える「観る」という行為だが、わたしの場合には(特にひとりで足を運ぶ場合)、観たい作品の前にさっさと移動してしまって、それだけに時間を費やすことにしている。
それでは入場料が勿体ない〜でしょと思われそうだが、いやいや、急ぎ足で数だけ観て何も印象に残らないよりも、「捨てることによって深く観る」ことで見えてくる世界を大事にしたい。はい、足腰弱ってきたしね。