平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

どうぞ、どうぞ、薬師寺で

ni ga


Kちゃんが「なんで日光、月光菩薩を博物館になんか持ってくる必要があるわけ?! 薬師寺で観ればいいじゃん」とケータイメールをくれた(月光を「げっこう」なんて読まないでね)。

なるほど、ごもっとも。最初に云っておくがわたしは美術館で仏像を観ることを悪いことだと思わない。むしろありがたいことだと思っている。

これらの仏像は間違いなく設置される場所を十分考慮しながら製作された筈である。その場合仏像は外光が直接射し込まない少しだけ奥まった蓮華座に鎮座することが多かった(「仏壇」とは、本来この蓮華座を言う。そうして「台無し」の台とはこのことである。また極楽浄土をこの世に再現するために、夏至や春分の日の光りを意図的に引き込んで仏像を直接照らし出すという設計もある)。
仏像を拝むということは、自分自身を見つめる行為でもある(「自分探し」じゃないよ)。まさか日光・月光菩薩のお二方も、天地左右から光りを浴びせられ、丸腰で「鑑賞」されるなんて想像もしていなかったでしょう。

そもそも仏像は「鑑賞」するものではない。「拝む」ものである。だから今回のように博物館に設置するということじたい拝むことを目的としない。本来の環境から敢えて切り離し「美術品」として「鑑賞」することである。博物館で仏像を拝んでいる人をあまり見かけないのはそのためだ。よって拝むことを目的としていないから、細部までよく見えるように仏像の光背を外してしまうことすらある。それは本来の環境では見えない(見せたくない)部分までもが「観察」できる機会でもあるわけだ。もちろんそれを、邪道だ〜!といって眉間にシワを寄せる人たちもいる。

故にケータイメールをくださったKちゃん、納得がいくように展覧会が終了したらぜひ薬師寺に直接足をお運びくださいね。ただし、そのときには「鑑賞」するんじゃなくって「拝む」ってことを忘れないように。

ya

そうそう、Kちゃん 岡倉天心を読むといいですよ。明治でいったんとぎれた文化を復興したのが岡倉天心(覚三ね)。彼が、廃仏毀釈で一端闇に葬り去れた仏像を再び表舞台に引っ張り出すんだけど、そのときに仏像は「拝む」から「鑑賞」対象にパラダイムチェンジするんだよ。

okakura

現在地:トップページ脳内探訪(ダイアリー)

サイトマップ