平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

天晴れ門前塾、諸君へ その2

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ハ〜ックション  
いや〜 きょうも花粉がひどいひどい。ハ〜ックション ハ〜ックション  
ある方と打合せをしていたら、なぜかくしゃみが止まらない。ハ〜ックション  
あとから思えば、なるほど相手は「杉山さん」でした。花粉症には天敵なお名前。
ハ〜ックション




学問こそ大事だ、なんて趣旨の日記を在野の人間が偉そうに書いて、「何をわかった気になってるんだ」と、在野と大学関係の方、両方から顰蹙をかいそうだが、まま、そこは何とぞ穏便に。
で、どうせなら更にもうひとこと書いておこうと懲りずに筆を執った次第です(はい、SANADAさん、原稿は今日中に送りますから、ちょっと待ってください)。

学生が在学中に社会と繋がる唯一のメリットは「この世の中に生息する奇人変人巨人たちはいったいなんだろう。どう受け止めたらいいのだろう。あ〜、俺って、なんて視野が狭かったんだろう(ここでB.G.M.「♪海は〜 広いな〜 大きな〜」が流れる)。今までは、偏差値という横軸でしか自分の能力を見てこなかった。このままじゃ何かまずいぞ。外に出て見聞したこと、それを学びの場に活かせないか。そうだ、あの“変人”のやり方、あれが何か役立ちそうだ。今自分のいる学問という領域で真似してみよう」。これに尽きるだろうとわたしは思う。だから、大学在学中から社会の側に立ってビジネスに成功しても、わたしはな〜んにも羨ましくないのである。心の底から羨ましくない(変な日本語)。それよりも、こんな学問の成果をあげた、と聞こえてくると、どんなに年齢差があろうとすごい嫉妬心を燃やしてしまうのである。メラメラメラ。
学生(特に大学生)は偏差値と同学年(違ってもせいぜい三つ程度でしょう)という「横並びの能力比較」でしか基本的に自身を評価できない。そんなどんぐりの背比べは無意味ですよ。ほぼ(勉学では)同じレベルの学生が集まっているんですから、(勉学だけで互いを)比較しあうことなどほとんど何の意味もありません。比較教育の問題じゃないです。大事なことは、今の自分の不出来を嘆いて、恥じて、実感して、現在の自分のサイズと立ち位置をきちんと見極めて、未来の自分のために少しでも駒を進めることです。それでしか人の成長はないですよ。

私事で恐縮ですが、(かなり)遅ればせながらわたしは社会に出てから(といってもそう遠くない過去)これを徹底的に意識して、わたしのことをまったく知らない学びの場にわたし自身を放り込んで、思い切り恥をかいてきた。
「すみません、知りません。わかりません。何のことですか。人の名前ですか、それとも地名ですか? あ〜、みんなすごいな〜。このままじゃまずい。自分が潰れてしまう。次までに絶対に勉強しておくぞ!!」と。そうして、わたしは無謀にも、天才といわれる人々に直接会いに行き、その方法を規矩にしながら何度も自分を上書きしてきた。でも(かなり悲しい事実だけれど)未だにこの程度だ。だからあのとき気付かなかったら、今頃いったいどうなってしまっていたのだろうと恐怖を覚える(何もしなければ気付くこともなかったから、それはそれで「幸せ」だったんだろうけど)。

「この人、いったい何して暮らしているの〜?」 「なぜこんな理不尽な生き方をしている人が、みんなから評価されているんだろう」 
学生諸君はもっととんでもない人と会わなくちゃいけないのである(もちろん先生たちの奇人変人巨人ぶりにも学ぶことは大前提ですぞ)。自分の常識がまったく通じない人に会って、こてんぱんにやりこめられないといけないのだ。そうして、くどいようだけれど、それを学びの場に活かす。いい、社会に嫉妬するんじゃないよ。学問の場で嫉妬しないと。そこを履き違えないように。
みんな、そう思って行動すれば、天晴れ門前塾なんて必要ないですよ。まぁ、世の中が何でもお膳立てして、評論の過剰な註釈みたいに親切すぎるから、自ら動こうとしないんだろうな〜とも思うけれど。でも、装置はあっていい、わたしはそう思う。動かすのは「もっと高まりたい」という意識を持った自分たちだし、その装置を駆動するガソリンは「学びたい」と思う気合いですよ。押忍。
(「こいつ、言っていることが青いな〜」と呆れ顔のみなさま。はい、その通りです。まだピチピチです。これからです)。


   ハ〜ックション (これは花粉のせいじゃないぞ。だれだ、悪口言っているのは)

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