天晴れ門前塾 諸君へ!
これこれそこのお嬢さん、「門」という字は、中に「日」も「口」も「音」も入りません。何、そこに書き込もうとしているんですか〜(笑)
アインシュタインはナチスに対抗するために、原子爆弾を持つよう時の大統領ローズベルトに勧告し、けっきょくそのことにより自らの首を絞めることになったんだね。後半生は一生懸命、原子爆弾反対の運動をした。そのことは知っているでしょう。
ノーベルは自分がつくりだしたダイナマイトで、巨万の富を得た。だがダイナマイトはいろんなところで悪用され、彼を苦しめたんだ。
天晴れ門前塾・第三期 成果発表会、お疲れ様でした。門前一座諸君&参加してくれた学徒諸君、ありがとうございました。
きのうきょう、わたしは考えた。いっぱい考えた。
そこで、みんなより少しだけ?先輩は、この場で君たちに云っておきたいことがある(偉そうだけど許してね)。
さて、天晴れ門前塾のフレーズは「学校を出て、学校を元気にしよう」だった。まさか、このフレーズを忘れたとはいわせない。あれだけ時間を割いてみんなで話し合ったんだから。
今一度このフレーズをかみしめてくれないか。原点に戻って欲しい。肝は下の句の「学校を元気にしよう」の部分だ。
外で学んだことを学校に引き戻して何ができるか、そう考えるのが門前のスローガンだ。外で学んだ事柄や方法を「学問に重ね合わせる」ということが重要だとわたしは何度も説いたつもりだ。君たちも十分自分で考えたはずだろう。
よくあるでしょう、「ヒントはすべて社会の側にあるという〈現場至上主義〉」。これって、はっきり言って間違っていますよ。なぜなら、「ヒントはすべて社会の側にあると教えてくれるのは学問」だからです。
社会に出て「ヒントはすべて社会の側にある」と感じるのは、社会が教えてくれているのではなく、「社会に出て学問しているわたし」が気付いたってことなんです。社会という現場に何か「自分を変えてくれる素敵なもの」が落ちていると思ったら大間違いです。そんなもの落ちてやしません。そこに奇貨があるなんていうのは幻想です。甘いです。
「おっ、ここに重要なものが落ちているぞ。これだ、これだ」、そう気付くのは「社会に出てからも学問しているわたし(学問してきたわたし)」なのです。
大学(専修学校も含めて。もちろん本来ならばあらゆる学びの場。以下便宜上、大学とだけ記す)とは、「ここに重要なものが落ちているぞ」と気付く力を研ぎ澄ませておく場なのです。だから大学という場を「単なる通過点」ぐらいにしか考えていないとしたら、社会に出てから痛い目に遭いますぜ(体験者は語る)。大学を「ノーマンズランド」にしてはいけません。だいいち、そのときにあわてたって、「社会に落ちている素敵なもの」に「学問していないわたし」は気づきっこないからです。そういう「わたし」は、自然と愚痴が多くなり、遁辞ばかりが巧みになり、何か不都合があると「社会が悪い」「会社が悪い」「あいつが悪い」となります。愚痴が達者になります。絶えず被害者。最悪なのはそれに気付かない「完璧に卑屈なわたし」が完成します。
とにかく、常に「社会の側」に「素敵なことが落ちている」なんて戯言をいう大人なんか信じてはいけません。
そういった意味で、今の天晴れ門前塾は、わたしの考えていた理想のカタチとはかなり距離がある。でも、わたしは、絶望していません(ショックなことはいくらでもあるけれど)。
なぜなら、天晴れ門前塾の可能性や実績に何となく気付いていながら、カゲで批判ばかりしたり、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる先生たちより、悩みながら苦しみながら何かをつかもうと活動している君たちの方が何百倍も可能性があるとおもうからです。
でも、今君たちに明らかに欠けているのは「学問する態度」と、天晴れ門前塾で学んだことを「学問に活かす」という視点と企画力と実行力です。
わたしが今云えられることは、これだけです。わたしが天晴れ門前塾をつくっているわけでもないし、つくれるわけでもないからね。
そうそう、冒頭、やや大袈裟にアインシュタインやノーベルを引いたけれど、天晴れ門前塾を原子爆弾にもダイナマイトにもしないようにね。両刃の剣、使い方しだいだ。
繰り返す。早く気付いて欲しい。少しだけ?先輩は、そう願っている。
【掛川 市民大学校・大学院 成果発表会、卒業式】
掛川市民大学校と大学院の成果発表会&卒業式がきょう15日におこなわれた。
市長をはじめ、教育長や議長など、都合130名程度の参加者があった。
提案内容はなかなかのレベルで、即実践できそうな提案があったり
企画のために絵本まで出版してしまった方までいた。
こちらは採用する側が問われそうである。