平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

いっしょに食事をするということ


もし古歌を引くなら
  
「 剪れども断れず
  理(ととの)うれども還た乱る 〈相見歡〉 」

そういうことか。
人は良いときは群がり、何かあると、とたんに黙りを決め込む。
必然的に言い出しっぺに責任の比重がかかる。
だからみんなびくびくして何もしようとしない。
世間とはえてしてそういうものだ。
組織に所属していなと、いろんなことが見えてくる。

hahahahahaと朔太郎のノラネコが笑う。

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情報意匠論の授業で提案した新聞広告の掲載が今年も決まった。
きょうはその撮影。
今年も賞を狙いにいくつもりだ。
え、賞を獲るためにやっているの?
本末転倒だね、という声が聞こえてきそうだ。
よく言われることだが、賞は獲らずには何も言えない。
結果が学生の自信につながればいい。
ただそれだけだ。
だが、そのときには注意が必要だ。
人はわたしの大学での仕事をなんと評価するかわからないが、
賞を獲りにいくまでのその過程を共有するステージも
(今の条件の中で、他の人には絶対に真似のできないだろうというころまで)
膨大な時間を割いて整えてきたつもりだ。
人文系の学問と社会のつながりをきちんと目に見えるカタチにして世に問う。
そこに補助線を引くのが今の自分の役割だろう。
理想論だけ並べるのではなく、その任務を目に見えるカタチにする。

わたしは投げ出さない。

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 わたしは、プロジェクトの節目節目に「食事をいっしょにする」ということを、とても重要な「儀式」にしている。大上段に構えていえば、それは「情報意匠論の方法」でもある。 
 プロジェクトの節目はもちろんのこと、大学の授業が終わったあとも必ず学生を誘って食事をする。十人を超えることも珍しくない。その年、履修した学生ばかりでなく、学食に向かう途中に(運良く?)すれ違う「元履修生」にも必ず「ねえねえねえ、ご飯いっしょに食べようよう〜」と誘う(食事の時間だけ、ちゃっかりと現れる不届きものもいる。他の大学の学生もいるではないか・・)。
 ところで、こういう場に積極的に参加するほとんどが女子である(がんばれ、男子)。バイトの時間ギリギリまで粘っていく。そんなこともあって、学生の何人かが、「それって新手のナンパですよ!」とわたしを叱る(何を言う!君たちはいったい何を勉強してきたんだ)。
 なぜわたしが、「いっしょに食事をする」という儀式を大事にするかといえば、それは「分け与える」という「配慮」がそこには必ず介在するからだ。「大皿でいっしょに食べる」ということは、そもそも「分け合う」ことなのである。しかし「孤食」世代にはこれがなかなかわかってもらえない。
 かつて獲物は必ず互いに分け合った。独り占めは許されない。「こんなに収穫があったんだけど、半分どうですか〜。いや、半分といわず、もう少しどうぞ」という行為から贈与するという仕組みが生まれ、そこでは相手を思いやるという心も萌芽した。
 わたしたちは既に平気になってしまったが、ひとりで食事をしているときの「わびしさ」を思い出してみて欲しい。あのわびしさは、ひとりで食事をすることの「さびしさ」ではない。それは間違いなく「獲物を独り占めする」ということへの罪悪感だ。それはきっと「なぜキリストが最後の晩餐」をしたか、ということにつながってくるのではないだろうか。最後は「議論」の場ではなく、「晩餐」なのである。いっしょに食べると言う行為は、腹を充たしているわけではない。心を充たしているのである。
 故に学生諸君、わたしの「ねえねえねえ、ご飯いっしょに食べようよう〜」という「お誘い」は、渋谷のまちのナンパとはわけが違うのだ。プロジェクトでは欠かせない、贈与の上にこそ成り立つ相手を思いやるという心、そのものなのである(誤解はとけた〜?)。

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