平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

卒論ミュージアム☆ ほう!


 ◎ごほほほほご 久しぶりに風邪を引きました。インフルエンザではないようですが、起き抜けは声も出ないし、咳は出るし、メールの調子も悪いし、プレゼンは一発で通らないし・・・(典型的なマイナス思考・苦笑)。


 ◎なぜなんだろうね。頑張っている人たちに対して、もっと素直に喜んであげたらいいのに。まぁ、いろいろあるのはわかるけれど。人間小さいな〜。


 ◎テレビ番組で、素人がプロのスタイリストとかヘアメイクに料理されながら、「ビフォア アフター わたし、こんなにきれいになりました〜」なんてやっていますが、やっぱりどんなに着飾っても素人はしょせん素人。では、なぜそう見えるのか。いちばん違うのは「姿勢」、そう、「背筋」です。
 その背筋という意味では、書も「背筋」が通っているかどうかが重要。背骨がない書は、見ていて辛い。ただ野太く書いて、これが書ですと差し出されても、それは鑑賞に堪えない。逆に言うと、どんなに自由に筆を運んでいても、金釘流でも、一糸乱れぬ書というものはある。要は「背骨」である。

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 ◎学生たちの「卒論ミュージアム☆」http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/353.htmlが開催された。ひとりひとりにコメントしたいが、すまぬ!時間がない。 それは今度の「合祝」で放ちます。とにかくお疲れ様!!私は素直にほめてあげたい。自分の学生の頃と比較したら、雲泥の差だ(そもそも自分の学生時代と比較することじたい申し訳ない)。
 ミュージアムに対する細かな反省点は色々あるかもしれない。そもそも卒論とはそうやって展示するものではないという意見も出ていいだろう。だが、卒論は提出して、卒業の判断材料として使われ、そうしてしまわれてしまって、それでお終いでいいわけがない。事実今までの大半がそうではないか。いったいどれだけの人文系の卒論が、社会の問題と現実レベルで重ね合わされ、世に問われたというのだ。
 卒論は格闘の中で生まれる。卒論はその人そのものだ。人生だ。ならばそうして難産しながらも楽しんだ卒論を後生大事に囲ってばかりいないで、社会に向かって解き放ってやって欲しい。もっと言うならば、厳しい社会の目にさらす勇気が必要ではないか。その理想型が今回の「卒論ミュージアム☆」なのかわたしにも判らない。だがこれはひとつの勇気であり、試みである。そこをみんなできちんと議論すればいい。
 一度は廃れてしまったり、そのときには陽が当たらなかった思想や哲学が時代を超えて蘇るように、埋もれてしまった卒論を再度丁寧に掘り起こし、再評価し、それを現実社会の問題とすりあわせる、そういう目利きの存在が学問の場には必要だ。特に人文系の卒論は、私のような企画を生業とする人間が見ると宝の山なのである。毎年膨大に埋もれていく卒論に「情報意匠論」は息を吹き込みたい。

 道は大きくひらかれた。そうだ、こういう一歩を待っていたのだ。

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※ちなみにわたしの卒論は「ミミズによる活性汚泥の生成」である。ダーウィンなのである。

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