平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

静岡大学 情報意匠論のプレゼンテーションを終えて

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 先の金曜日、静岡大学人文学部言語文化学科「情報意匠論」で成果発表会をおこなった。小二田誠二准教授に声を掛けて頂いて早四年。スポンサーの力添え、組織の後押し、そうして時代の追い風もあって、既存の大学ではできなかった、やってこなかったいろいろな成果へとつながる種蒔きはできたのではないかという多少の自負もある。

 さて、今年度は授業の曜日が祝日と大学祭に重なって実質二回分も少なかった。補習も考えたが、この授業の性格からして各グループと個別に話をした方がよいと判断、学生には年末年始も返上して集まってもらった。先にも書いたが、そのために帰省が遅れてしまった先輩学生もいて、すまないやら有り難いやら。

 持ち上げておいて落とすわけではないが、彼らのプレゼンテーションには課題が多く残っている。なかでも最大の問題は、声が届かないということだ。聴衆に届く前に、途中で声が床に落ちてしまっている。
 確かにわたしはこの授業を通して、プレゼンのテクニックを伝えたいわけではない。だが、これはそれ以前の問題である。大きな声というか、通る声できちんと相手に伝える。これはコミュニケーションの大前提である。
 企画の内容は、例えば自分たちが仮説、先行研究(取り組み)を調べることによって出てきた履歴書やおみくじ、討論会などの「型」を使って、必要に応じて調査、論証をし、既成のものごとをリデザインしようとしている点は評価できる。

 さて、これからだ。全部動けば6グループもある。あとはわたしがそれをどう引き受けるか、そこが問題だ。はっきり言って、これは完全に通常の授業の枠を越えている。授業の全日程が終わってから、社会とつながって本格的に始まる授業なのだから。もちろんその先には学生が余分にもらえる単位は用意されていない。もちろんわたしの給料もゼロ。ははは。ひとは、自分がやりたいから勝手にやっているんだろうと陰口をたたく。確かにそうだ。その通りだ。やるからにはきちんとやりたい。中途半端では自分の気がすまない。しかし、わたしがここまでやるのは何か目に見えない大きな力に突き動かされているような気がしてならない。
 だからわたしは今まで学んできたことを情報意匠論で全部出し切る。すべてを学生にぶつけるつもりでやっている。質問されれば、廊下や学食、カフェへ移動しながらも話し続ける。それでも足りなければ適任者を捜し出し、特別授業をしつらえる。こんなリスキーな授業のやり方というかルール、いったい誰がつくったんだ。わたしだ。はっはっはっ。そうして、ちゃんと着いてきてくれる学生がいるからこそ、わたしもがんばれる。
 さあ、皆の衆、緒に就いてくれ!

 自分の取り組みを熱く語って聞かせてくれる学生。定期的に葉書をくれる学生。思い出したと言ってメールをくれる学生。自ら手がけた卒論を見せてくれる学生たち。毎年毎年ずっと授業に顔を出してくれる学生たち。特別授業には何はさておき出席してくれる元履修生たち。他大学からもさまざまな取り組みに参加してくれる学生たち。彼らを前にしてどうして手が抜けようか。
 最後にひと言だけつけ加えておく。学生達の頑張りは、もっと大学というわくを越えて評価させるべきだ。それが社会連携、地域連携に対する評価軸のひとつだろう。大学の中だけで評価されていてはまだまだである。自画自賛、自己満足には終わりたくない。それは例えば学生がつくってくれた広告に対する社会的評価である。そのためにみんなの作品を「評価されるべきステージ」へと押し上げることがわたしの使命であると強く感じている。あとはわたしの責任である。

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