平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

負はクリエイティブのエンジンである

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 のっけから申し訳ないが、わたしは昨今かまびすしい「プラス思考」というものにひじょうに違和感をもっている人間のひとりである。もちろんプラス思考が悪いわけではない。大いにけっこうである。ただし、それをビジネスっぽく仕立てて、あらゆる問題を解決するがごとく看板を掲げているそういうスタイルにうんざりしている。ダイイチ気持ちが悪い。
 これら手合いは、書籍やネットをベースキャンプに不特定多数を対象に「悩んでいる人、よっといで〜」と呼びかける。あなたをプラス思考に変えてみせます。他人とこんなふうにうまくやっていけます。ビジネスだって成功しちゃうぞ。その先に待っているのは、こんなにすばらしい人生です。とこういう論法である。自分との向き合い方の発見!なんて言い換えているフシもある。
 そういう場所で登場する言葉は爽やかで、いつもキラキラしていて眩しい。自分探しで、本当の自分で、ピュアなわたしで、純粋無垢なわたしである。そうして、とっておきのキーワードが「癒し」だ。キリスト教徒はこんなに無自覚に乱打されている「癒し」の現状をどう見ているのか。

 え、そもそも最初に想定している「本当の自分」って何ですか?
 「ピュアなわたし」って、いったいどういう自分ですか?

 とにもかくにも、そう呼びかけている人の論理の前では、負を負のまま抱えて生きることが、まるで罪のようにおもえてくる。そんなこと、ひとことも言ってないぞ!と力まれても困る。言ったか、言わないかではない。そこにはそう聞こえてしまうロジックが間違いなく埋め込まれているのだから。
 ゴッホは半狂乱のまま耳を削ぎ落として銃で捨身した。生前その絵は弟のテオ以外には理解されず、ただの一枚も売れなかった。だがどうだ。それが一枚ウン十億円、その評価は今や不動のもだ。
 モーツァルトは、糞尿趣味、スカトロマニアの変態である。その負を抱えてあれだけの曲を創った。
 三島由紀夫、太宰治、イサムノグチ、岡倉天心、与謝野晶子、草間弥生らの生き方や成果を「プラス思考という方法論」はどのように説明するのだろう。もっと大上段に構えるならギリシア神話の神々の心模様をプラス思考だけでどう説明するのだ。
 「さー、プラス思考で生きましょう〜。くよくよしていても何も解決しませんよ〜。良い作品なんかつくれません。あなたのそのマイナス思考を正すにはこんなハウツーがありますよ〜 さー、頑張ってゴッホさん!!」とでもアドバスするのだろうか。それは極端な言い方だろうと叱られるかもしれない。だが、その論理は五十歩百歩である。
 象徴的な文字がある。「明」の文字だ。この文字には、負を抱えるヒントがある。明るいという文字は、日と月でできている。単に明るいだけなら、日の文字だけで十分ではないか。なぜ月の文字が入っているのか。そこをもっと考えるべきだ。なぜ満月の晩を選んで珊瑚は産卵し、ジャガイモは芽吹くのだ。
 人は負を抱えたまま、その負と共存しているからこそ自ら考えるのだ。考えて考えて考え抜くのだ。負を心から追い出したり、なくしたりするのではなく、いかに負を抱えて生き抜くかがわたしは重要ではないかと考える。そういうと、彼らは更に、もちろんその考え方を含んでのプラス思考ですよ、と弁明する。相手の云った言葉をジャンプ台にする切り返しはそろそろやめたにしたらどうだろう。
 はっきり云う。負はクリエイティブのエンジンである。 

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