枯山水に極まる 〜重森三玲に遊ぶ
骨董好きで、マジック好きの父親のもう一つの趣味は庭であった。自宅を建てるときにも自らこしらえた岩の模型を畳いっぱいに広げ、組み直しては壊しを繰り返し、勘案すること四六時中しかめっ面を決め込んでいた。手一束の手持ちしかないくせに、よくやるものだと家人は呆れ顔であった。
いざ造園工事が始まってからは口こそ挟まなかったものの、できあがったばかりの縁側にどっかりと腰をおろし、文はやりたし書く手は持たぬといった感じで、庭師にくっついて離れなかった。さぞかし、庭師はやりにくかったろう。
さてこの度、父親の残した埃だらけの書物をひっくり返していたら、重森三玲の『枯山水』が顔を出した。ほう! それから現代教養文庫の一冊に収められている『茶室と庭』だ。ほうほう!!なるほど、これらが父親の虎の巻だと知って、我が父親ながらその選書に驚いた。
重森三玲といえば、永遠のモダンと自他共に認める庭師で、あのイサムノグチに庵治石を教え、彼の一生をも変えてしまった人物だ。盃を持つ代わりに、筆を持って「落書き」を繰り返した人でもある。
そんな重森三玲はこんな意味のことを云う。
「すべての物づくりは創作でなくてはならない」「現代に残っているすべての伝統は創作されたものである」。そうして辿り着いたのが、一草一木もない庭であった。
茶を知ることで庭を知る。庭を知ることで建築を知る。
この本がきっかけで今回、重森三玲の展覧会とパネルディスカッションを覗いてみて、そうして改めて父親の蔵書をひっくりかえすこと百ペン、おおくのことを学んだ。