平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

挨拶ができない

keshiki3


 まだ頭が痛いのが治らない。いや、偏頭痛ではない。今度は社会に対してである。
 挨拶のできない人が本当に多くなった。特別な式典の挨拶ではない。日常の「こんにちは」「ご苦労様」の挨拶の話だ。それが、わたしの実感である。これは社会現象である。昔からずっと続いているまちの小売店でも、嫁いできた女性が挨拶ひとつできない人で、つぶれていった店をわたしは知っている。現在も身近にそういうお店のあることを私は知っている。挨拶は店の伝統である暖簾をもけがしている。

 会議でみんなが集まる。普通であれば挨拶をしながら入ってきたり、目が合えば挨拶ぐらいする。猫や犬だってワンとかニャンぐらい言う。でも挨拶のできない人はなぜか何とな〜く会場に入ってきて、席に着くまでの間に何人かの知った顔が挨拶をするのにほとんど無視する(目は明後日の方を見ている)。早々に知った顔を見つけて、さっきの話の続きですとばかりに話し始める。三時間前からその席にいたようなふうである。ある個人に対してのみ挨拶がないならまだわかる。それは相手のことが気に入らないでしょう、と理由が明確になって、まぁ、所詮そんなものかと苦虫をかみつぶす。が、注意深く観察していると、挨拶ができない人はおおくの人に対して同じである。しかし一方で会のトップには笑顔で挨拶し、普段年下に対しては偉そうに説教をしている。なにやらそういう人は確固たる自分流があって、それにそぐわないと大声で怒鳴ったり、叱ったりもしている。
 もっとも基本的な挨拶、それがきちんとできないひとは、けっきょく肝心なときに周りに呼びかけてもその人の周りには人が集まらない。呼びかけても呼びかけても人が集まらない。それはそうだ。だって普段、人に対してそうなんだから。でも、悪いのは常に相手である。俺様の情報に集まらない奴は鈍感だ!もう声などかけてやらん!と、こうなる。常におれ様の情報に集まらない奴が悪いというデフレスパイラルである。
 そのうち気付くのか、それともこのまま行くのか。
 とにかく基本中の基本の挨拶ができなければ、明るい先もないだろう。もっともっと基本的なことだとおもう。

 ※自分のサイトに、きれいでさわやかな言葉だけを並べる気など最初からない。たとえ小さなことでも、きちんと云っておかなければないことは書き記していきたい。それが「オヤジ」の役割である。

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