ノーギャラで雇う文化のスタイリスト
書籍や音楽、映画もそうだけれど、この人が良いといったものはすべて目を通す、わたしはそういったことをけっこう大切にしている。自分の文化のスタイリストといったものを一人二人抱えるのである。しかもノーギャラで。ふっふっふっ。というか、これぞという人の眼を信じ切って自分自身を委ねてしまうのである。何とも贅沢で素敵な遊び方ではないか。ご存じかもしれないけれど、信長だって秀吉だった、そうやって自分の眼を育てていったのだ。言い換えるなら、自分の利休や織部を誰にするかということなのだ。そんな話を静岡大学人文学部小二田誠二准教授とそのゼミ生たちとの宴席で話した。
そこで小二田先生が激賛していたのが「加藤訓子http://www.kuniko-kato.net/」のパーカッションだ。ほろ酔い気分の彼の眼が一瞬ぎらりと輝く。お金さえあればチケットすべてを買い占めそうな勢いである。いや、彼が一国の王様なら間違いなく夜ごと宮廷で大演奏会が催されたであろうし、自分ひとりのために演奏させただろう。間違いない。
彼がそこまでいうなら、これは万象繰り合わせないとまずいでしょう。どう、学生諸君、もうチケットを購入した? したでしょうね〜、小二田ゼミは優秀だから。
話は少し逸れる(ようにみえるかもしれない)。大学生を観ていていつもの思うのは、なぜ自分がこの人!と決めた先生の授業を(後生に残すために)全部ビデオに撮ろう、一言一句漏らさず録音してやろうという生徒がひとりもいないのか。だってその先生、外ではお金を払ってでも話を聞きたいといって大勢の人が集まるんだよ。それだけじゃーない、「録音させてもらっても良いですか?」なんて関係者に耳打ちして、にべもなく断られてがっかりしているんだから。学生は近くにいすぎてそれに気付かないだな〜。わたしが学生なら、ランチを抜いてでも、交通費を節約してでも、これだと思った先生の授業をぜーーーーーんぶ記録し続ける。気にいった授業だけじゃない。その先生の痕跡すべてを集める。撮る。書き損じた原稿、煙草の吸い殻、それらをぜーーーーーんぶコレクションする。したがって進んで研究室の掃除だって買って出る。そうやって来る日も来る日もただただ集める。誰にも云わない。そうしてあるタイミングを待っていっせいに世に出すのである。だから過去のさまざまなコレクションというのは散逸しないでいるのである。それを今はおたく文化という(「おたく」は平仮名、片仮名の書き方があり、評論家諸氏はこだわりを持っている)。
そういう生徒はいないのかな〜。近くにいすぎると判らないんだな〜。あー、勿体ない。日本文化の「数寄」ってことを何だとおもっているんだ。尽くすってことですよ、尽くす。
というわけで、わたしは「加藤訓子」のチケットをゲットしたのであ〜る。
おい、みんな、行くぞっ!