辞書を片手に
平野のサイトは辞書を横に置いて読む。そういった内容のメールを関西のある方から頂戴した。前向きなわたしは、これは即座に褒め言葉だと取って破顔した。特別むずかしい漢字や言い回しを使っているわけではないが、若干古風な言い回しがぴたりときて、そちらを採用する場合がある。時折、誤植じゃないかという指摘も受けたりする。いえいえぜひ辞書を引いてくださいとそう云いたい(誤植もあるけれど)。敢えてむずかしい漢字を選んでいるわけではない。よりぴたりと来る文字や言い回しを充てているだけである。それがたまたま昨日今日、現下に使わぬ言い回しになってしまったりするだけの話だ。けっしてお釈迦様やキリスト様、老子や荘子も知らぬ日本語を使っているケースなどない。
このことは度々ある問題を引き起こす。あらたしい(新しいじゃない)紙面に連載をはじめるときに、編集者とぶつかるのだ。漢字が難しからルビをふってくれ。古風な言い回しが分かりにくいので、現代の言い回しに変えて欲しという依頼というか、命令がおりる。
だが、そういうとき、わたしは断固として闘う。言辞を弄して説得もする。もちろん納得がいけばそれに従う。
そもそもマスコミは読者をバカにしている。うちの読者はこんな漢字なんか読める筈がないと決めつけている(どうですか、みなさん、腹立たしくないですか)。全く以て度し難い態度であるとわたしは力を込める。読めなければ読者は前後関係から推測する。そうしてきちんと理解したい人は、辞書にあたる。だからこそ、あらたしい言葉を覚えていくのだ。人が今知っている言葉だけで、ものごとを考えていこうとしたら、この先世の中はいったいどうなってしまうのか。ただ文章を右から左へ流し読みするということにもなりかねない。稽える力、知りたいという欲求、感性はそこで間違いなくストップする。先細りする。わたしは、そこときちんと闘いたいのだ。
まあ、そんな訳で、これからも若干なじみのない言い回しが登場するかもしれぬが、ご容赦頂ければ有り難いと伝爾(しかいう)。