子規に教わった現場主義
現場主義・現地主義という言い方がある。言うまでもなく、現場に足を運んでみなければわからない、ヒントは現場にある、といった意味だ。ブッキッシュ、すなわち書斎派のわたしが肝に銘じていることでもある。
この言い方を思い出す度に、齢三十五歳で息をひきとった正岡子規の短歌を連鎖的に思い浮かべる。
瓶にさす藤のはなぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
この短歌、意味がわからない人にはすこぶる評判が悪い。なぜかと言えば、歌の内容が、瓶にさしてある藤の花が短くて畳の上に届かない、ただそういっているだけだからである。 だから何?こんな情景描写は短歌ではないと言い切った歌人さえあった。
ところが、である。いやとよ、これを子規が脊椎カリエスの病床「六尺」でも広いと言った布団の上で横になりながら詠んだ短歌だとわかったらどうだろう。子規の目線は畳なのだ。動かぬ体。夜昼に関係なく押し寄せてくる激痛、悶絶、号泣。そういう中で、彼はこの一首を詠んだのである。あ〜、もうちょっとであの瓶からのびている藤の花に手が届くのにな〜という気持ちを言葉にしたのだ。
このことは「子規歌集」などの書物だけを読んでいたのでは絶対にわからない。「子規庵」に出かけてみて、そこで子規の臥せっている姿を想像し、子規の目線になって、はじめてわかることなのだ。
こんな一首もある。
瓶にさす藤のはなぶさ一ふさはかさねし書(ふみ)の上に垂れ