評論家などいらない・・・
「評論家などいらない」という言い方がある。実践あるのみ。答えは現場にある。屁理屈を並べている奴にろくなのはいない。そう考えている人に多い常套句である。いちぶ捨て台詞に使う人もいる。
わたしはこの言葉を聴く度に、この人は本当にすばらしい評論というものを味わったことがないんだろうな〜とおもう。いったいそういう人はどのくらいの評論に触れているのか、といった疑問も持つ。もちろん発話者は「言うだけで実践を伴わない人」といった程度で評論家を持ち出すケースもあるのだろうが、こんなにマイナス印象を評論家という職業におっかぶせて平気なのは、やはり本物の評論に触れていない証拠である。少なくともわたしは、評論家という職業をそんなふうに扱えないし、友人たちがそんな無神経な言葉でばっさりとやられているその横を黙って通り過ぎるほどお人好しでも薄情でもない。
残念ながら多くの「実践者」は世の小疵(しょうし)に気付かない。そこをきちっと「リスクを負って切り出してくる」のが評論の役割である。文学だけではない。社会学や政治、経済、科学、あらゆるものに評論がある。良い評論は、作家や企業家に気づきを与え、間違いなく時代を次のステップへと導く。職業家としての評論はいつから誕生したのかはわたしは知らないが、評論家が誕生する前から間違いなく「評論」はあった。職業階級ではなく言葉がきちんと機能していたのである。
ここまでわかっていて、それでも「評論家などいらない」というのであれば、わたしの出る幕ではない。
※自動車でいざ出陣と思ったら、屋根の上からカマキリが睨んでいた。
もしもし、カマキリさん。素足で足の裏をヤケドしませんか。