向田邦子という生き方 2018/06/13
かの山本夏彦をして、「向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である」と言わしめた邦子の“秘め事”。邦子33、34才頃、13才年上の妻子あるN氏との恋・・・。この本には、N氏の日記の一部も公開されていて、例えば、「5時 邦子来る。夕食:さしみ、邦子製八宝菜、わかめの酢のもの、おでん、と豪勢に並べてパーティ 10時邦子帰ってゆく。」「邦子 9時半すぎ帰って行く。その后は何となく 気抜けしたような ボンヤリした気持で フトンの中で本を読む。」などと、綴られている。
改めて、向田邦子が、なぜ、人間味あふれる多くの作品を残せたのかもよくわかる。
そういえば、友人の母親が、もと向田邦子の編集担当で、そのころのエピソードもいくつかは聴いているのだが、その方も今年亡くなってしまった。
一途な人、ほかに心を動かすことのなかった向田邦子。10年前に偶然手にした本に再び泣かされた。
「秘密のない人って、いるのだろうか。
誰もがひとには言えない、言いたくない秘密を抱えて暮らしている。そっとして、こわしたくない秘密を持ちつづける。日々の暮らしを明るくしたり、生きる励みにしたりする。そんな秘密もある。秘密までも生きる力に変えてしまう人。向田邦子はそういう人だった、と今にして思う。
N氏と秘密を共有し、人生のよきパートナーとして、お互いが頼りにし、寄り添いあって、ある時期を生きた。彼が病気で倒れてからは、二人の絆と信頼感はさらに深く、強くなったに違いない。
N氏と生きた時間のなかで、姉はどれだけの生きる糧をもらったことだろう。大きな影響と惜しみない言葉、言葉にならないもののなかに姉は生きる糧の本質を見たのではないだろうか。そこに姉の“書く”原点があったように思う。姉に“書く”ことを気づかせてくれ、姉をうまく育ててくれた人。N氏はそういう存在だったと考えている。“秘め事”の茶封筒はN氏が亡くなった後、彼の母親が姉のもとへ託したものだということも後で知った。
姉は十五年あまりの間、ずっと茶封筒を持ちつづけた。どうしても捨てられなかったのか。そこに在るものは単純に在るものとして、そのままにしておいたのか。いずれ、捨てるつもりが、そのままになってしまったのか。答えはわからない。永遠の謎だ。
姉は本当になにも言わなかった。おくびにも出さなかった。みごととしか言いようのない“秘め事”にして、封じ込めてしまった。
邦子は一途だった。ほかに心を動かすことはなかった。それが、向田邦子という人だ。」(向田和子『向田邦子の恋文』新潮社,2002)
これは、恋文と言うよりも、「愛文」である。
◆「脳内探訪」内、関連記事
ちょうど10年前に、はじめてこの本を手にとっていたんだなあ・・・
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/418.html
http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1866.html
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