趣味で本など読みはしない
ただの趣味で本など読まない。常に新しい発見を読書に求める。大袈裟に言えば、ぜったいに何かを獲得するぞ、という意気込みと態度で書物に向かう。最低ノート十頁分は言葉を拾うぞ、とか、この作家なら、この疑問は最低「聞き出してやろう」とか、そういうふうに本を読む。だから片手にギンギンに削ったHi-uni、机の上には各種付箋と辞書を手術道具のように揃えてから本に向かう。
そうしたら、まずは目次をたっぷりと時間をかけて読む。そこで、おおかた著者が云いたいことの文脈を浮き彫りにし、脳内に「文脈地図」をつくる。これができたらもう読書は成功したようなものだ。欲を言えば、同時に目次からキーワードも拾っておきたい。ぴーんときたワードには具体的に鉛筆で印を刻む。章と章、項目とキーワードを線でつないでマップを創ることもある。
ここではじめて披読する。本文中に写真や図表があれば、そのキャプションだけを最初にざっと拾い読みする。さらに尻えに索引があれば猛禽類の目線で捕らえ、該当頁数の多そうな項目を目指して急降下して、鉛筆でぐるりと輪を描く。
そう、そうして、やおら物語の旅にテイクオフするわけだが、待て待て、最初の数頁はひじょうにゆっくり読み出すのだ。なぜなら前半の頁にはキーセンテンスが多く、時代や舞台、登場人物などの背景描写が多いので、ここではけっして焦らず「理解」する。ゆっくりと、とにかくゆっくりと翼にはらんだ風を感じながら読み進める。すると自然と五六頁を越えたあたりから一気に加速できるのだ。
しかし、である。問題はここからで、なぜか、わたしは記憶力に乏しい。これだけ頑張って読んでやっと人並みかそれ以下。語彙力はいつまで経ってもふえない。佶屈贅牙な文章は小学生以来変わらない。自己分析してみるに、幼少のころ、そのいちばん多感な時期の過ごし方に難があったようにおもえる。そんなわけで、何も努力しなかったら、いったいどうなってしまうのだろう・汗汗汗 う〜 読書とはまことに玄奥なものである。